管理人【K】の言葉

恋人の転勤についていくか迷うとき、自分の仕事と暮らしも話に入れる

ログインしてブックマーク

「おめでとう」

栞はグラスを持ち上げた。向かいの席で、恋人の亮が照れたように笑った。

ずっと希望していた部署への異動が決まった。勤務地は、今の街から新幹線で二時間ほど離れている。準備していた面談のことも、返事を待つあいだ落ち着かなかったことも、栞は知っていた。

だから、うれしかった。

食事の途中で、亮が物件の写真を見せた。

「この広さなら、二人でも住めそう」

栞は、グラスを置いた。自分が仕事を辞める話は、まだ一度もしていなかった。

お祝いの席で、言い出せなかったこと

「駅から近いね」

そう答えると、亮は次の写真を開いた。台所が広い。日当たりもよさそう。栞がいつか欲しいと言っていた大きな本棚も置ける、と言った。

自分との暮らしを考えてくれている。それはうれしかった。

同時に、来月から担当する仕事が浮かんだ。ようやく自分の企画を任されることになっていた。帰りに寄るパン屋も、月に一度集まる友人も、この街にあった。

一緒に住みたいと話したことはある。いつか、という話だった。そのいつかが亮の転勤日になっていることに、栞だけが追いついていなかった。

亮は「栞の仕事も、向こうで探せばあると思う」と続けた。

悪気があるようには見えなかった。離れずに済む方法を、一生懸命考えてくれているのかもしれない。

けれど、亮の新しい仕事は部署の名前まで決まっている。栞の仕事は、「向こうで探すもの」になっていた。

その違いを口にすれば、お祝いの空気を壊しそうだった。

デザートが来ると、栞は写真を撮った。画面の中の二人は、同じ未来を楽しみにしているように見えた。

ついていかない自分を、先に責めていた

帰宅後、栞は異動先の街を検索した。駅の周りの店、図書館、休日に行けそうな場所。住んでみたいと思えるところもあった。

求人の画面を開くと、手が止まった。

今の仕事に不満がないわけではない。忙しいし、辞めたいと思った日もある。それでも、転勤がなければ、今この時期に辞めることは考えていなかった。

亮には新しい仕事に挑戦してほしい。自分は今の仕事を続けたい。

二つを並べると、どちらかが相手を諦めなければならないように感じた。

離れて暮らしているうちに、気持ちまで離れたらどうしよう。あのとき一緒に行けばよかったと後悔するのが怖かった。

反対に、ついていった先で仕事が見つからず、毎晩帰りを待つ暮らしになったら、亮のうれしそうな話を今のように聞けるだろうか。

まだ起きていないことだった。それでも、好きだから大丈夫と言うには、自分が手放すものをよく見ていないと思った。

栞は、検索していた画面を閉じた。

今の仕事を続けたい。住む街を変えるなら、自分の働き方も調べてから決めたい。すぐには動けない。

そう書いてみると、亮に異動をやめてほしいという言葉は、一つもなかった。

二人の予定に、まだ決めていない欄を作る

翌日の夕方、栞は亮に電話した。

「昨日はうまく言えなかった。異動が決まったのは、本当にうれしい。でも、私は今の仕事を辞めて一緒に引っ越すとは、まだ決めていない」

亮は驚いた。

「前に、一緒に住みたいって言ってたから」

「住みたい気持ちはあるよ。ただ、いつ、どこで、仕事をどうするかは、これから一緒に考えたかった」

少し沈黙があった。亮は、離れて暮らすことをほとんど考えていなかったと言った。

栞も、遠距離で大丈夫だと言い切れるわけではなかった。簡単に会えなくなるのは寂しい。会いに行く時間もお金もかかる。行き来する役目が片方に偏れば、別のつらさが出るかもしれない。

それでも、引っ越す以外の方法を二人で考える前に、退職する方向へ話が進むのは困った。

週末、もう一度会った。

亮は会社に返答が必要な日と、赴任する日を書いた。栞は、担当する仕事の区切りを書いた。二人の日付は、同じところには並ばなかった。

「最初は別々に住むなら、どうなるかな」

亮がそう言い、二人で交通費と所要時間を調べた。毎週会うのは難しそうだった。会える回数を数えると、栞は寂しくなった。亮も、思っていたより大変だと言った。

一緒に行く場合の話もした。栞が働けるか、住む場所をどう選ぶか、暮らしにかかる費用をどう分担するか。亮の「何とかなる」と、栞が確かめたいことの間には、まだ距離があった。

その日、答えは揃わなかった。

ただ、亮の赴任に合わせて栞も引っ越す、という前提はいったん外した。栞は今の仕事を続ける。亮はまず自分が暮らす部屋を探す。離れて暮らす間の会い方を考え、赴任から二か月たったころに、実際の生活を踏まえてもう一度話すことにした。

二か月後に必ず引っ越す、という約束はしなかった。

応援する言葉に、自分の返事を足す

店を出る前、亮が物件の写真を見せた。昨日より少し狭い、一人で暮らす部屋だった。

栞は胸が痛んだ。自分が言ったことで、二人で住むはずだった部屋が消えたように感じた。

でも、二人で決めた部屋ではなかった。自分が黙っているうちに、決まったようになっていた部屋だった。

「寂しいね」と栞が言うと、亮もうなずいた。

話せたから気持ちよく送り出せる、というわけにはいかなかった。一緒に行く未来も、離れて暮らす未来も、それぞれに欲しいものと心配があった。

帰りの駅で、亮は翌週の引き継ぎの話をした。栞も、自分の企画で直したいところを話した。

今すぐ同じ街へ移れなくても、相手の挑戦を喜ぶ気持ちは伝えられる。引っ越すかどうかは、自分の仕事や暮らしも含めて二人で考える話だった。

「向こうでの仕事、楽しみだね」

栞はそう言ってから、続けた。

「私も、今の企画を最後までやってみたい」

お祝いの席では飲み込んだ自分の予定を、今度は同じ会話の中に置いた。


本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。

ログインしてブックマーク
管理人 【K】

WORDS LEFT HERE

この記事を読んで、心に残ったこと

答えや助言でなくても大丈夫です。 あなたの言葉は確認後、こよりがそっと届けます。