夫が風呂に入っている間に、美咲はスマートフォンを確かめた。
仕事で知り合った人から、昼に話していた映画の感想が届いていた。「あの場面、美咲さんならどう思いますか」。それだけの文章を、二度読んだ。
聞かれているのがうれしかった。正解も用件もない、自分の感じ方を知りたいという問いだった。
返信を考えていると、浴室の扉が開く音がした。美咲は画面を伏せた。夫は冷蔵庫から水を出し、「明日、何時に出る?」と聞いた。
悪いことは何もしていない。そう思ったすぐあとで、何もないなら、なぜ伏せたのだろうとも思った。
結婚して八年。夫を嫌いになったつもりはなかった。けれど最近、帰宅後の楽しみは、その人から届く連絡になっていた。
その人の前にいる自分が好きだった
話のきっかけは、仕事の帰りに何人かで寄った店だった。美咲が昔好きだった映画の話をすると、その人が題名をメモした。翌週、「観ましたよ」と声をかけられた。
自分の話を覚えていて、わざわざ観てくれた。それが胸に残った。
家では、買うものや週末の予定の確認が多い。夫にも好きな映画はあるのに、最後にその話をしたのがいつか、思い出せなかった。
その人と話すと、自分が少し面白い人になった気がした。夕飯の支度を気にせず、言葉を選びながら笑う時間があった。好きになったのは相手だけなのか。その人の前で戻ってくる自分の感じも、好きなのかもしれなかった。
誰かへのときめきには、その人への関心と、その人といる自分への喜びが混じることがある。どちらか一つに決めてしまうと、気持ちの一部が見えなくなる。
寂しかったから惹かれた、と説明すれば収まる気もした。でも、夫婦の寂しさを全部埋めたら、この人への関心が消えるかは分からない。結婚に問題があるからだけ、人はほかの人に心を動かされるのだろうか。
一方で、新しい人を思う時間が増えるにつれて、夫への見方は厳しくなっていた。話が広がらない。こちらを見ずに返事をする。今まで流していたことが、一つずつ目につく。
美咲は、その人とはまだ、疲れた夜の洗い物をどちらがするか決めたことがなかった。返事を書くまで何度でも言葉を選べる関係と、余裕のない顔まで見える暮らしを比べていた。
それで夫との不満が消えるわけではない。ただ、新しい人との時間の輝きだけで、八年の結婚の良し悪しまで決めようとすると、見えていない場面があまりにも多かった。
ある夜、「今度は二人で観に行きませんか」と連絡が来た。
行きたい、と思った。予定は空いている。
夫には何と言おう。そう考え始めたところで、美咲は返信の手を止めた。
決めていない間にも、選んでいる
映画を観るだけ。まだ何も始まっていない。
その言葉を使えば、約束はできそうだった。けれど、二人で会うことを夫に伏せようとしている自分の気持ちまで、映画だけの話にはできなかった。
心が動いた瞬間を、前もって選ぶことは難しい。そこから連絡を重ねること、会う約束をすること、説明のつかない予定を別の用事に見せることには、自分が決める部分がある。
「まだ結論が出ない」と考えている間にも、関係は進む。気持ちを確かめるためにつくった秘密が、後から夫婦で話せることを狭めていくかもしれない。
美咲は、その晩は返事をしなかった。翌日、「二人で出かけるのは、今はやめておきます」と送った。
送ったあとも、会いたかった。これで気持ちが静まると期待していたのに、通知が来ない夕方は長かった。夫に戻れたような晴れやかさもなかった。
それでも、会わなかった時間に考えられたことがあった。この人からもう連絡が来ないとして、自分は夫とどんな関係でいたいのだろう。
離れたいのか。今の暮らしの何かを変えたいのか。誰かに会いたくなるほど、自分の中で話さずにいたことは何だったのか。
夫との関係を続けるかどうかが、新しい人が自分を選ぶかどうかだけで決まってしまうのは怖かった。相手からよい返事が来るまで結婚を保留にしておく形では、夫は事情を知らないまま待たされることになる。
週末の朝、夫が来月の予定を話したとき、美咲はいつものように手帳を開きかけた。
「予定の話の前に、少し聞いてほしいことがある」
夫は顔を上げた。
「最近、二人で何かを面白がって話す時間がなくなったのが、寂しい。私も、用事しか話さなくなってた」
夫はすぐには答えなかった。しばらくして、「疲れてるのかと思ってた」と言った。
この会話だけで何かが戻るとは思わなかった。美咲が話したのは、結婚の中で確かめたいことの一つだった。
夫が無口だったことと、美咲がその人への返信を待ち望んだこと。その間に寂しさはあっても、夫が一人で起こした出来事にはならない。「あなたが話を聞かないから」と言いたくなるときほど、自分で選んだやりとりも見失わずにいたい。
もし、すでに隠して会うなど、二人の約束に関わる行動があったなら、話す必要のあることも変わる。「寂しかった」という気持ちの共有だけで終えると、夫は起きたことを知らずに、これからの関係を考えることになる。
ときめきを知ったあと、「こんな気持ちになってはいけなかった」と責め続けるうちに、次の誘いが届くこともある。好きかどうかの答えが出る前に、会う約束をするか、親密な返事を続けるかは選べる。そのために誰かへ嘘をつこうとしているのなら、今決めるのは、その一通を送るかどうかからなのだと思う。
美咲は、机に伏せてあったスマートフォンを鞄に入れた。夫が「最近、何観た?」と聞いた。うれしさと後ろめたさが、一緒にあった。
話し始めても、別の人を思う気持ちは残っている。今日ここで夫の返事を聞くことは、美咲が自分で選んだ。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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