「窓側と奥、どっちがいい?」
二度目の食事でそう聞かれて、真由は「どっちでも」と答えた。本当は、通りから見えにくい奥の席が落ち着く。
前の恋人なら、何も聞かずに奥へ歩いていた。メニューを開けば、真由が迷いそうなものを二つ挙げてくれた。今日の相手は、向かい側で一生懸命メニューを読んでいる。
悪いことは何もされていない。それなのに、少し寂しかった。
帰り道、「今日は楽しかった」と連絡が届いた。真由も、笑った場面は覚えていた。仕事帰りに道を間違えた話はおかしかったし、話の続きを聞きたいと思った。
でも家に着くころには、「あの人だったら、もっと楽だったのに」という気持ちのほうが大きくなっていた。
別れた相手を忘れたくて、新しい人と会ってみた。その帰りに、また元恋人が恋しくなる。誰と会っても同じなのだろうか、と思った。
説明しなくて済んだ時間
元恋人と最後に行った店を、真由はよく覚えている。
仕事で疲れていた日だった。席に着いても話す気になれず、しばらく黙っていた。相手は気にする様子もなく、水を注いでくれた。沈黙を埋めるために質問を考えなくて済んだ。
新しく出会った人といると、そうはいかない。何を聞こう。今の言い方は冷たかっただろうか。相手の話を聞きながら、自分の返事も気にしている。
真由が恋しかったものの中には、その人自身への思いと、もう説明しなくても通じる関係への懐かしさが混じっていた。
好みを知ってもらうために話した時間。黙っていても怒っていないと分かるまでのやりとり。長く一緒にいた二人には、何度も会ったから省けるようになったことがある。
その省略された時間まで、初めて会う人との相性の差に見えることがある。
真由は、前の恋人と最初に食事をした日を思い出した。やはり通りに面した席だった。落ち着かなくて、二軒目の店では「奥に座りたい」と自分から言ったのだった。
最初から、何も言わずに分かってくれたわけではなかった。
それでも、今さらまた一から話すのは疲れる。慣れた関係を失った寂しさは、思い出を整理しただけでは埋まらない。真由は、元恋人の名前が残る連絡先を開きかけて、スマートフォンを置いた。
あの人に会いたい。もう自己紹介をしなくていい場所へ帰りたい。今夜は、その両方だった。
まだ知らないことを、欠点にしない
数日後、食事をした相手から、次は少し歩いてからお茶にしないかと誘われた。
真由は迷った。元恋人のことを思い出すのに、また会うのは失礼だろうか。けれど、前に聞いた話の続きが気になるのも本当だった。
返事を書く前に、あの夜の「どっちでも」を思い出した。
自分が伝えなかった好みを相手が知らなかっただけなのに、「分かってくれない」に数えていた。相手は、選ばせてくれようとしたのかもしれない。
「行きたい。お茶は、静かに話せる店だとうれしい」
そう返した。
元恋人がしてくれたことを、そのまま次の人に求め始めると、目の前の相手はいつも何かが足りない人になる。席の選び方、返事の間、帰り道の歩く速さ。かつての二人に合っていた振る舞いが、誰にでも課す正解になっていく。
自分にとって大事なことは、今の言葉で伝えられる。「前の人なら察してくれた」と比べる代わりに、「私はこっちが落ち着く」と話してみる。そこから相手が何を聞き、どう応じるかには、その人との関係の手がかりがある。
知らなかったことと、伝えても繰り返し軽く扱われることは、同じにはできない。まだ親しくないからといって、嫌だと話したことまで我慢して待つ必要はない。
約束の日、相手が選んだのは、路地にある小さな喫茶店だった。奥の席へ座ると、相手は窓辺の鉢を見て「家でも育ててるんだけど、あんなに大きくならなくて」と言った。
植物を育てる人なのか、と思った。
前の恋人とこの人を比べるつもりで来たわけではないのに、注文を待つ間にも、昔の店を思い出した。そういう自分は、今日もいた。それから、目の前の人の部屋にはどんな鉢があるのか、少し見てみたくなった。
忘れるためだけの約束にしない
帰ってから、真由は今日会って恋人になれそうだったかを考えた。まだ分からなかった。
ただ、相手の育てている植物の名前を覚えていた。前の恋人がしなかった話を、今日は聞いた。
新しい人に会うたび元恋人を思い出すと、まだ誰とも会う時期ではないのかと迷う。反対に、会い続ければ忘れられるはずだと、自分を急かすこともある。
そのとき、「この人について、もう少し知りたいことがあるだろうか」と考えてみる。元恋人を忘れられたかどうかだけで会う時間を測ると、相手との間で起きていることが見えにくくなる。
今は誰の話にも関心が向かず、ただ寂しい夜を埋めたい気持ちが強いなら、次の約束を入れずに、その寂しさを過ごす時間が必要なこともある。相手から関係を進めたいと言われたときも、忘れるために気持ち以上の返事をするのは苦しい。
その夜も、元恋人のことを思い出した。水を注いでくれた手も、話が届かなくなっていった頃の顔も浮かんだ。
懐かしさは残っていた。
それでも次に会ったら、今日聞きそびれたことを尋ねたいと思った。あの鉢は、いつから育てているのだろう。
今度の相手には、まだ知らない話がある。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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