日付が変わる五分前から、短い文章を何度も書き直していた。
『誕生日おめでとう。元気にしてる?』
付き合っていた三年間は、誰より早く祝うのが自分の役目だった。店を予約し、日付が変わった瞬間にメッセージを送り、返事の絵文字まで覚えていた。
今年はもう恋人ではない。それでも何もしないと、過ごした時間まで薄情に捨てるような気がした。
時計が零時を示した。送信ボタンの上で、指だけが止まっていた。
おめでとうの後ろに続いていた文章
重いと思われたくないから、二行だけにした。けれど心の中には続きを書いていた。
自分を思い出してほしい。嫌われたままではないと知りたい。少しでも会いたいと思ってほしい。できれば『久しぶりに話そう』と返してほしい。
祝いたい気持ちは本物だった。返事をきっかけに、閉じた関係を少し開けたい気持ちもあった。片方を隠して『ただのお祝い』と呼ぶと、既読がつくまで画面を見続ける自分だけが残る。
返事がなければ眠れない。『ありがとう』だけでも意味を探す。やさしい返事なら、別れた理由より期待を信じたくなる。今夜の自分は、どの返事にも静かではいられそうになかった。
宛先をメモへ変える
送信前の文章をすべて選び、メモアプリへ移した。その下に『期待している返事』と書いた。
『私も思い出してた。また会いたい』
書いてみると、待っていたものがはっきりした。誕生日を祝う礼ではなく、関係が終わっていないという知らせだった。相手の誕生日を入口にして、その返事を求めようとしていた。
メモには続きを書いた。旅行で喧嘩したこと。去年のケーキがおいしかったこと。別れ際に言えなかった腹立ち。幸せでいてほしい気持ち。自分より先に幸せになってほしくない気持ち。
相手へ送るなら整えて隠す言葉も、メモの中では並べたままにした。送らない言葉にも意味があり、相手の心を動かさず自分で受け取れる。今夜はその形にした。
日付が変わっても役目だけが残っていた
午前零時七分。元恋人の誕生日は始まっていた。自分のスマートフォンからは何も届いていない。
以前なら、この時刻には相手の返事を読んでいた。祝う役目がなくなったあとの零時には、何をすればよいか分からなかった。
冷蔵庫から水を出し、去年の誕生日を思い出した。店を探し、プレゼントを選び、喜ぶ顔を想像した時間は確かに自分の人生にあった。今年メッセージを送らないことで、その時間まで消えるわけではない。
毎年鳴るよう設定していた通知を止めた。忘れると決めたからではない。来年の同じ時刻に、機械から過去の役目を命じられないようにした。覚えていたら、そのときの自分が過ごし方を選ぶ。
送らなかった朝にも生活はあった
翌朝、目を覚ますと最初にメッセージアプリを開いた。送っていないのだから、返事は来ていない。それでも画面を確かめた自分に少し笑った。
後悔は残っていた。短いお祝いくらい送ればよかったのではないか。相手も待っていたかもしれない。考え始めると、別の未来はいくつも作れた。
メモを開くと、昨夜書いた『また会いたい』があった。欲しかった返事を、自分はもう知っていた。その返事を相手から引き出すために誕生日を使わなかったことも、昨夜の選択だった。
朝食を作り、仕事へ向かった。相手の誕生日は続いている。こちらにも、ごみを出し、電車に乗り、昼を食べる一日が続いていた。
祝いたかった気持ちは届かなかったからといって消えない。送らなかった寂しさも、きれいな決断に変わらない。言葉の行き先を相手から自分へ変えた夜が、ただ一つ残った。
帰宅後、メモは削除しなかった。明日読み返すかもしれない。もう開かないかもしれない。午前零時七分の自分が受け取った手紙として、そのまま保存した。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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