体験教室から帰った美奈は、描いた絵を袋に入れたまま、台所の椅子に座った。
青い花を描いたはずだった。紙の上では、花びらが一つの大きな染みにつながっていた。
隣の席の人は、同じ見本を見て、薄い青と濃い青をきれいに重ねていた。「初めてなんです」と笑っていた。美奈も初めてだったけれど、そのときは言えなかった。
娘が家を出たら、絵を習ってみたい。何年か前から、そう思っていた。
ようやく出かけた一日なのに、帰りの電車では、次の教室の日程を調べる気になれなかった。
久しぶりに、できない人になった
家では、だいたいのことに手順があった。
残った野菜で夕飯を考える。雨の日に洗濯物を乾かす。家族の予定が重なったら、誰が何時に出るかを先に聞く。面倒だと感じながらも、終わらせ方は分かっていた。
それも、初めから今のようにできたわけではない。焦がした鍋も、乾かなかった子どもの靴もあった。困るたびに人へ聞き、やり方を変えてきた年月を、美奈は普段、思い出さない。
教室では、水をどれくらい含ませるかさえ分からなかった。
先生の手元を見ていたのに、自分の番になると、筆先から水が落ちた。もう一度尋ねようとして、ほかの人が次へ進んでいるのを見た。
「これくらい、自分で分からないと」
誰にも言われていない言葉が、自分の中で聞こえた。
長く家族の暮らしを回していると、自分が尋ねるより、尋ねられる時間が増える。知らないことにも対処してきたからこそ、何を聞けばよいかさえ分からない場所で、急に頼りなく感じることがある。
美奈が持ち帰ったのは、絵の出来への不満と、周りが分かっていることを自分だけ知らないような恥ずかしさだった。
「私には向いてないのかも」
そう言えば、もう行かない理由になる。好きになりかけたものから離れるには、少し寂しい言葉だった。
趣味を選ぶとき、自分に合うものなら、もっと自然にできるはずだと思うことがある。初めてなのだから、と頭では分かっていても、出来上がったものを並べると、その違いが自分の適性の差に見えてしまう。
けれど、初日にうまく手を動かせるかと、その時間の何に惹かれるかは、同時には分からないこともある。まだ覚えていない手順が、楽しさまで隠してしまう日がある。
絵を見せられなくても、覚えていた色
夕方、夫に「どうだった?」と聞かれた。
「難しかった。全然、見本みたいにならなかった」
「見せて」と言われると、「また今度」と答えた。夫はそれ以上聞かず、洗濯物を取り込みに行った。
一人になってから、袋の中の絵を出した。花の輪郭はぼんやりしている。飾りたいと思える出来ではなかった。
それでも、余白に試した青が気になった。
色を混ぜると、少しずつ変わった。見本の花を描く前に、紙の端で何度も試した。水を足したとき、さっきまで濃かった青が透けて、紙の白が見えた。その瞬間には、隣の人の絵を見ていなかった。
美奈は、花を上手に描けたかどうかで、一日を思い返していた。混ぜた色を眺めていた時間は、その採点から抜けていた。
見せられるものができなかったという残念さはある。その一方で、描いている途中に気になったこともあった。どちらかを消して、楽しかったか、つまらなかったかの一つにまとめなくても、自分について知れることはある。
青が薄くなるところを、もう一度見たい。
そう考えてから、教室の案内を開き直した。入会するかはまだ決まらない。ただ、次に尋ねたいことは浮かんだ。
「水の量が分からなくて、途中からついていけませんでした。もう一度、色を試すところから教わる時間はありますか」
問い合わせを書きながら、あの日、手が止まった場所が具体的になった。
何かを始めてつらくなったとき、その活動の全部をすぐ向き不向きの結論にする前に、分からなくなった箇所まで戻ってみる。説明の速さなのか、道具の使い方なのか。自分は何をもう一度やってみたいのか。その違いが見えると、次に選ぶ場所や教わり方も変わってくる。
尋ねても急かされる、作品を笑われる、質問をしづらい。そのような場に通い続けることを、初心者の我慢にする必要はない。活動への関心が残っていても、別の先生や一人で試す方法を探せる。もちろん、試してみたら、もう一度は望まなかったという答えもある。
翌日、教室から返事が来た。次の体験回では、最初に紙を一枚使って、水と色を試すところから始められるという。
美奈は手帳を開いた。その日は、午前中に買い物を済ませれば間に合う。夕方の食事をどうするか、夫にも話した。空いている時間に、そっと差し込む予定にはしたくなかった。
申し込む前に、もう一度、昨日の絵を見た。
花の形は、やはり好きになれない。次はきれいに描きたい気持ちもある。それでも、次の一回で自分が向いていると証明するつもりで行くと、また隣の紙ばかり気になりそうだった。
水を足すと、どこから色が薄くなるのだろう。
今度は、それを先生に聞いてみたい。まだ描けない花の横に、もう少しだけ、青を並べてみたいと思った。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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