「私も、こういうの作って売ってみようかな」
駅前の小さな市で、布のかばんを手に取りながら直子は言った。隣にいた娘が顔を向ける前に、「なんてね」と付け足した。
「家のミシン、ずっとしまったままだしね」
自分で笑うと、娘も笑った。二人はかばんを棚へ戻し、次の店へ歩いた。
帰宅してからも、直子はその店でもらったカードを捨てられなかった。出店者の名前を検索し、並んでいたかばんの写真をもう一度見た。
軽い思いつきのつもりなら、どうしてまだ気になるのだろう。
自分で笑えば、傷つかずに済む気がした
子どもたちが家を出て、直子は物置にしていた部屋を少しずつ片づけていた。棚の奥から、昔使っていた布や糸が出てきた。
通園用の袋を縫っていたころ、布を組み合わせる時間が好きだった。必要な枚数を作り終えてからも、残った布を並べていたことがある。その後は頼まれた直し物をするくらいになり、ミシンを出す機会も減っていた。
また作ってみたい。その気持ちはある。
けれど「売る」と口にした途端、急に大げさなことを言った気がした。趣味と呼べるほど続けてもいない。値段をつけられるものが作れるかも分からない。
娘に「お母さんが?」と驚かれる姿を想像して、自分のほうから話を終わらせた。
「なんてね」と言えば、本気にされなくても傷が浅い。何も始めなかったあとに、あの話はどうなったと聞かれずに済む。長く家族の予定を支えてきた直子には、自分の見通しのない話を食卓へ出すことが、どこか落ち着かなかった。
家族が知っている自分から、少しはみ出す。まだ何もできていないのに、そんな照れが先に来ていた。
本気で話すことと、実現を約束すること
数日後、娘との電話で市の話になった。
直子は「あのかばん、やっぱりよかったね」と言った。娘は「お母さん、作りたいって言ってたやつ?」と返した。
覚えていたのだと思うと、また笑って流したくなった。
「うん。でも、売るのは難しいだろうし」
そこまで言って、直子は手元のカードを見た。まだ始めてもいないことの難しさを、始めたい気持ちより先に説明していた。
「この前、冗談みたいに言ったけど、少し本当だった。作ったものを、知らない人が手に取ってくれたらうれしいなと思って」
口にしてから、胸がどきどきした。
娘は「そうだったんだ」と言い、それから「何を作るの?」と聞いた。直子は、まだ決めていないと答えた。かばんは好きだけれど、まずは家のミシンが動くかも分からない。
それでも会話は続いた。
願いを本気で話すと、その日から実現する責任まで負うように感じることがある。「やる」と言ったのに続かなかったら、家族をがっかりさせるかもしれない。前に興味を持ったことも長続きしなかった。その記憶があると、決める前の気持ちはますます話しにくくなる。
ただ、「気になっている」は、その時点での本当のことだ。申し込んだ、仕事にする、といった決定とは段階が違う。調べて考えが変わることも含めて、いま関心があると伝えられる。
家のお金や共用の部屋を使うなら、具体的になったところで相談が要る。興味を話しただけで、家族の同意や協力まで得たことにはならない。それでも、すべての見通しが立つまで、自分の願いを冗談にしてしまうのは寂しい。
「何をするか」の手前にあるもの
電話を切ったあと、直子は自分の言葉を思い返した。
知らない人が、手に取ってくれたら。
娘と話すまでは、かばんを売りたいのだと思っていた。それも間違いではない。けれど気になっていたのは、値段をつけることだけではなかった。家族に必要だから作るものを離れて、自分が面白いと思って組み合わせた布を、誰かが選んでくれる。その場面を想像していた。
やってみたいことを口にすると、その奥にある願いまで少し聞こえてくる。自分で決めたものを形にしたいのか。家の外で名前を覚えてもらいたいのか。誰にも見せず、作る時間に没頭したいのか。同じ「ものを作る」でも、欲しい体験は人によって違う。
直子にも、まだ分からないところがあった。人に選んでもらえなかったら、楽しさはなくなるのだろうか。売らずに作るだけでも、続けたいのだろうか。娘と話す前には考えなかった問いが残った。
以前「なんてね」と引っ込めた話があるなら、その直前に何を思い描いていたか、思い返してみる。家族にもう一度話すかどうかは、その関係によって選べる。茶化されたり否定されたりする場で、無理に打ち明けることを出発点にしなくてもいい。まず自分が、その話のどこに心を動かされたのかを聞いてみたい。
日曜、直子はミシンを机へ出した。下糸の巻き方を忘れていて、説明書を探すところから始まった。
試しに縫った線は、端で曲がった。誰かに売るには、まだ覚え直すことが多そうだった。それでも布をひっくり返し、もう一度縫ってみた。
その晩、娘から「ミシン、動いた?」と連絡が来た。
「動いた。今日は試し縫いだけ」
写真を添えて送ったあと、直子は「たいしたものじゃないけど」と打ちかけた。少し見て、その一文は消した。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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