三か月かけて作った冊子が、受付に積まれていた。
千尋は一冊手に取り、表紙を指でなぞった。締め切り前に何度も差し替えた写真が、紙の上に収まっている。隣にいた同僚が「できたね」と言った。
「うん。でも、ここの文字、もう少し大きくできたよね」
返事をしながらページをめくった。見つけた直しどころを二つ、スマートフォンに入れた。もう修正する予定はない。それでも、気づいたままにしておくと、自分が雑な仕事をしたようで落ち着かなかった。
同僚が夕飯に誘ってくれた。「今日は早く寝たい」と断ると、帰り支度をする音だけが残った。疲れていたし、何より、喜んでいる人たちの中へ入れる気がしなかった。
帰りの電車で、完成を知らせるメッセージに返事をした。お礼の言葉は書けた。送ったあと、何も湧いてこない自分が残った。あんなに終わってほしかった仕事なのに。
終わったところから、次の不足を見ていた
作っている間は、これさえ終わればと思っていた。印刷に出したら、ゆっくり昼食を食べよう。納品されたら、机に溜まった資料を片づけよう。
実際に終わると、先に浮かんだのは来月の仕事だった。今回かかった時間を縮めたい。もっと分かりやすい構成にしたい。次は同じ苦労をしたくない。
どれも、仕事をして知ったことだった。千尋には工夫する楽しみもある。ただ、完成した冊子を見るたび、次に直すところしか口から出てこなかった。
完成前には「必要な情報を、期日までに届ける」が目標だった。届いた途端、その目標は「もっと上手に、もっと速く」に変わる。達したはずの場所を確かめる時間がないまま、まだ届いていない場所から今の仕事を眺めていた。
手元に冊子があっても、頭の中では未完成の仕事が続いていた。
一方で、区切りがつけば喜びが追いつくとも限らない。仕事をしている間は見ないようにしていた疲れや、うまくできなかった悔しさが残る日もある。次の目標をひとまず置いても、空っぽな感じが消えないことはある。
千尋は、誘いを断った自分にまでがっかりしていた。せめて笑って乾杯くらいすればよかった。そんなふうに、完成のあとに「ちゃんと喜ぶ」という用事も足していた。
翌朝、同僚から写真が届いた。昨夜の夕飯だった。おいしそうだねと返し、しばらく迷ってから続きを打った。
「昨日は誘ってくれてありがとう。まだ、終わった感じがしない」
自分でも、何を返してほしいのかは分からなかった。元気な返事へ整えるだけでは、今の気持ちをどこにも置けなかった。
あのページを一緒に見た
昼休み、同僚が冊子を持って千尋の席へ来た。
「この図、最初ぜんぜん収まらなかったよね」
二人で机を囲んでいた夜を思い出した。図を縮めると文字が読めず、大きくすると説明が入らない。帰ろうと言いながら、試し刷りを机に並べ続けた。
「最後、順番を入れ替えたんだよね」
二人の間で、そのページを開いた。いつもなら、まだ窮屈に見える余白を指したと思う。その日は、順番が決まったとき、同僚が椅子を引いて大きく息をついた話をした。
「あのあと、お腹すいたって急に思った」
同僚が笑った。千尋も少し笑った。
出来上がったものには、直したい箇所が残っている。それと同時に、迷った末に決めたことや、間に合うよう互いに引き受けた仕事もある。不足を探す目だけで見ていると、そうした時間が、最初から何事もなくできた部分へ埋もれてしまう。
自分を褒める言葉は、うまく出てこなかった。どうやってここまで作ったのかを、一緒にいた人と少し思い返した。次の企画のためのメモは開かず、二人とも、今回の冊子を見て話していた。
席へ戻る前、同僚が「直し、まだ何か必要?」と聞いた。
千尋は、納品時の確認表を開いた。依頼されていた内容は揃っている。すでに確認してもらった箇所へ、今の自分ならという理由で修正を足そうとしていた。
「今回の分は終わってる。次に気をつけたいことは、別に残してある」
言うと、少し心細かった。改善点を話し続けていれば、まだ頑張っている自分でいられた。終えた仕事から手を離すと、その後をどう過ごすかも自分で選ぶことになる。
もちろん、抜けた情報や誤りが見つかれば対応は要る。忙しかった作り方を次も繰り返さないために、担当や日程を見直す話も残る。納品と同時に次の仕事が積まれているなら、終わった本人の気持ちの切り替えだけに任せず、仕事を配る側と日程を話す必要もある。完成を認めることは、困ったことをなかったことにする約束ではない。
その週末、千尋は冊子を鞄から出した。達成感と呼べるほどの喜びは、まだなかった。家で読むと、やはり文字の小ささが気になった。
それでも、あの図のページで手が止まった。試し刷りを並べていた机を思い出し、もう一度だけ眺めて本棚へ置いた。
終えたものを手にしても気持ちが動かないとき、すぐに次の頑張り方を決めたくなる。その前に、今回どこまでを終える約束だったか、途中のどこで困り、どう通り抜けたかをたどってみる。一緒に進めた人がいれば、まだ覚えている一場面を話すところから始まる。
その時間にも、うれしさが湧くとは限らない。ただ、終えた仕事について、直しどころのほかにも話せることがある。あの夜に決まらなかった図が、いま一冊の中に収まっている。千尋は棚から取り出しやすい向きに、背表紙を揃えた。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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