退職の話を切り出そうとすると、入社した年のことを思い出す。
説明についていけず、会議のあとも席を立てなかった自分。その隣で、先輩が図を描き直してくれた。あの三十分がなければ、翌朝また出社するのは難しかったと思う。
仕事を変えたい理由は、もう幾つか言葉になっている。それでも先輩の顔を思い浮かべると、「お世話になったのに」が、考えたことを全部止めてしまう。
恩のある職場を去るときには、働き方の希望と一緒に、受け取ったものをどう扱うかという問いが残る。
教わったノートを開く
美咲は、転職先への入社を決めたあとも、直属の先輩である藤井に話せずにいた。正式な退職の相談は翌日、上司にする予定だった。
机の引き出しから、古いノートが出てきた。最初のページには、藤井が書いた確認の順番がある。赤字の横に、小さく「ここは毎回迷う」と添えてあった。当時は、その一言にも救われた。できる人にも迷う箇所があるのだと知った。
いまの会社には、不満もある。次の職場で挑戦したい業務もある。けれど退職の理由を説明しようとすると、今の会社がいかに悪いかを並べたくなる。そうしなければ、出ていく自分を支えられない気がした。
ノートを読むうち、美咲はその説明をためらった。ここで覚えたことまで、嫌だった話の中へ押し込んでしまいそうだった。
「教えてもらったことは、今も使っている」
その事実は、次の職場を選んだあとにも残っていた。
感謝を仕事の中へ残す
上司との相談を終えた日の夕方、美咲は藤井に退職の意向を話した。藤井は驚き、「これから一緒にやれると思っていたんだけどな」と言った。
胸が痛んだ。ここで残ると言えば、表情が戻るかもしれない。その考えが浮かんだまま、美咲はしばらく黙った。
「最初の年、図を描きながら教えてくれたこと、覚えています。あれから自分でも説明できるようになりました。次は、ずっと関心のあった制作の仕事に進みたいです」
藤井はすぐに祝福しなかった。「引き継ぎ、大変になるね」と言った。美咲にも、その大変さは想像できた。
二人は担当案件を開いた。美咲が当たり前に判断していた箇所ほど、他の人には分かりにくかった。手順書には、操作の順番しか書いていない。どの数字が出たら確認を止めるのか。例外のとき、誰に連絡するのか。その理由が抜けていた。
美咲は、古いノートと同じように、迷いやすい箇所へ理由を書き添えた。後任候補の同僚に一度操作してもらうと、説明が飛んでいる場所も見つかった。
全部を完成させる時間はなかった。未解決の案件、残した資料、次に確認する人を一覧にして、上司と残りの日程を相談した。後任の配置を決める仕事は、上司に残った。
美咲が引き受けたのは、退職までに渡せる知識を渡すことだった。人が足りるまで在籍する、辞めたあともいつでも応じる。そんな終わりの見えない約束を口にしそうになるたび、日程表を見直した。
寂しい顔も見送る時間に含まれる
最後の日、藤井はノートを見て「こんな字、書いてたか」と笑った。美咲は笑い返したが、前のように気軽な空気が全部戻ったわけではなかった。
送別の席で言えなかったこともある。もう少し一緒に働きたかった気持ちも、早く新しい仕事を始めたい気持ちもあった。
恩を返し終えた、と区切れる日は来ないのかもしれない。助けてもらった記憶は、次に迷っている人へ説明するときにも働く。受け取ったものを使う先は、これからも増えていく。
もし退職の相談文が「申し訳ありません」で埋まっているなら、具体的に教わったことを一つ思い出すところから、別の文が生まれることがある。感謝している出来事、自分が進みたい仕事、退職までに引き継ぐ内容。それぞれが書かれていれば、去る理由のために過去を悪く言い直す必要も減る。
相手が寂しがるか、喜ぶかは、その人の中で起こることだ。話したその日に、気持ちが揃うとは限らない。
美咲の最終出社後も、藤井の部署には仕事が続く。翌週、美咲にも初めて覚える仕事がある。鞄にはあのノートを入れた。もう使わない会社固有の手順の間に、説明を聞く人がどこで迷うかを考える癖が残っていた。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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