火曜の十六時、奈緒は小会議室へ呼ばれた。
部長は人事評価の紙を机に置き、「来期から係長を任せたい」と言った。調整力がある。後輩からも信頼されている。難しい案件を最後まで投げない。褒められた点は、どれも奈緒がこの一年、歯を食いしばって続けたことだった。
「ありがとうございます。頑張ります」
考える前に口が動いた。
帰りに夫へ連絡すると、駅前の店で小さなケーキを買って待っていた。おめでとう、と箱を開ける。奈緒は笑ったが、一口食べたところで喉を通らなくなった。
「ごめん。明日食べる」
箱を冷蔵庫へ戻しながら、会社を辞めたい、と思った。昇進した日にそんなことを考える自分は、ずいぶん勝手に見えた。
褒められた場所がいちばん痛かった
奈緒は調整が得意だと言われてきた。実際は、誰かの遅れを見つけるたび自分の予定をずらし、取引先へ謝り、帰宅後もチャットを確認していた。
後輩に頼られるのは嫌ではない。資料を作る仕事も好きだった。ただ、係長になれば担当案件に加えて七人の進捗を見る。部長が見せた職務表には「緊急時の一次対応」と書かれていた。
奈緒が評価されたのは、自分がもうやめたいと思っていた働き方だった。
夫は「給料も上がるんでしょ」と言った。悪気はない。奈緒も住宅ローンの残額を知っている。それでも来期の月曜日を想像すると、朝から胸が詰まった。
会社を辞めたいのか。人の遅れを背負う役から降りたいのか。夜の連絡を止めたいのか。奈緒の中では、まだ全部が一つの塊だった。
聞いたのは一問だけだった
翌朝、奈緒は部長へ「正式な返事を金曜まで待ってください」と頼んだ。昨日は頑張ると言ったのに、と責められる気がしたが、部長は予定表を見てうなずいた。
新しい役割の範囲と支援体制を一つ質問する。奈緒が選んだのは、夜間の対応についてだった。
「一次対応は、係長が毎日見るという意味ですか。交代する人はいますか」
部長は職務表を見直した。この部署では係長がほぼ一人で受けている。来期から当番制にする案はあるが、まだ人事と話していないという。
その答えを聞いて、奈緒の息苦しさには輪郭ができた。会社の建物も、資料を作る仕事も、後輩も嫌いになったわけではない。二十四時間、問題が起きるかもしれない状態で暮らすことに限界が近かった。
奈緒はもう二つ質問した。担当案件は減るのか。係長にならず、専門職のまま働く道はあるか。
部長はその場で答えられず、金曜までに確認すると言った。思っていたほど話は整っていなかった。会社側にも、まだ決めていない部分があった。
金曜にも結論は出なかった
金曜、部長から示されたのは、最初の半年だけ担当案件を半分にする案だった。夜間当番は三人で回せるよう人事へ申請する。ただし、通る保証はない。専門職の制度は別部署にしかなかった。
奈緒は昇進を受けるとも、辞めるとも答えなかった。条件を書面でもらい、週末に考えることにした。転職サイトへ登録し、家の固定費も夫と数えた。
会社を辞めるかだけでなく、仕事・役割・環境の何を変えたいのかを分けて考える。紙へ書くと、奈緒が残したいものも見えた。製品の仕様を考える時間。二人の後輩。平日の収入。
変えたいものは、夜間の呼び出しと、調整役へ仕事が集まる仕組みだった。それが会社で変わらないなら、辞める理由になる。変えられるなら、三か月試す余地がある。
日曜の夜、奈緒は冷蔵庫からケーキを出した。スポンジは少し乾いていた。夫と半分ずつ食べながら、「昇進が嫌というより、このままの係長が嫌みたい」と話した。
夫はしばらく黙ってから、「最初に給料の話をして悪かった」と言った。奈緒は首を振った。給料も大事だった。胸が詰まる感じも同じくらい、選ぶための情報だった。
月曜、奈緒は部長へ条件をもう一度確認する。受けるかどうかは、そのあと決める。辞表もまだ書いていない。
ケーキを喜べなかった夜から一週間。答えは出ていない。それでも奈緒は、自分をぜいたくだと責める代わりに、何を背負う話なのかを会社へ聞けるところまで来ていた。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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