管理人【K】の言葉

願掛けをしないと不安なとき、儀式と結果を切り分ける

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転職活動を始めてから、真帆は毎朝、白い器の水を替えていた。

窓を開ける。水を注ぐ。器の前で『今日こそ道が開きますように』と三回唱える。それから求人サイトを開く。

誰に教わった作法でもない。ある晩、眠れずに見ていた動画をきっかけに始めた。水の表面が静まるのを見ていると、ばらばらだった気持ちが朝の机へ戻ってきた。

二十七日目、その器の横で第一志望の会社から不採用のメールを読んだ。

回数を間違えたことにした

悲しいより先に、前日の朝を思い出した。電話が鳴って、言葉を二回しか唱えなかった。水にも小さな埃が浮いていた気がする。

『ちゃんとやらなかったから落ちた』

そう考えると、理由の分からない不採用に理由ができた。次は間違えなければいい。ところが安心したのは数分だけだった。

器を洗う時間が長くなった。言葉を噛むと最初からやり直した。出張先にも割れない容器を持っていった。仕事を変えたくて始めた習慣なのに、朝は応募書類より水の状態で埋まっていった。

願いの下にあった一文

休日の朝、真帆は器の横へ付箋を置いた。

毎日の行為に何を望んで行うのか、一文だけ添えてみることにした。最初に書いたのは『次こそ採用されるため』だった。

眺めているうちに、少し違うと思った。採用通知は欲しい。でも、どの会社でもよいわけではない。今の職場で、急な依頼を断れず、帰宅後も通知を見続ける暮らしを終えたかった。

付箋を剥がし、こう書き直した。

『夕食の時間に仕事の通知を見なくてよい暮らしを選ぶため』

その朝は、水を替えたあと求人を一件閉じた。給与は高かったが、夜間対応の多さが書かれていた。別の一件には応募し、勤務時間について確認したいと備考欄へ書いた。

器が会社を選んだわけではない。水に触れる手、口にした言葉、そのあとに選んだ行動が、同じ方向を向いた。真帆にとっての儀式は、身と口と意を望む方向へ戻す短い時間になった。

水を替えなかった月曜日

翌月、熱を出して朝まで眠った。目を覚ましたのは昼過ぎだった。器の水は昨日のままで、面接の結果が届く予定の日でもあった。

胸がざわついた。このままメールを開けば、何か悪いことが起きる気がした。熱のある体で水道まで行こうとして、台所の手前で座り込んだ。

そのとき、付箋の一文が目に入った。望んでいたのは、自分の暮らしを選ぶことだった。具合の悪い日に休むことも、その暮らしに含まれている。

真帆は水を替えず、会社へ体調不良の連絡をした。結果の確認も翌日に延ばした。罰は起きなかった、と言い切るための話ではない。そもそも採否も体調も、器と取引して決まるものではなかった。

形を残す日と残さない日

転職先が決まったのは、それから二か月後だった。第一志望より小さな会社で、面接では夜間の連絡について何度も質問した。採用されたのは儀式のおかげかと聞かれたら、真帆には分からない。

ただ、水を替えた朝には、自分が望む一日を思い出した。応募をやめた日も、質問を送った日も、疲れて何もしなかった日もあった。その選択の積み重ねが、今の職場へ続いていた。

白い器は新しい部屋にも持っていった。毎朝は使わない。気持ちが散らばった日に水を注ぎ、付箋へ一文を書く。書いた願いが古くなっていたら、言葉を変える。

儀式を結果との取引にすると、叶わなかった日まで自分の落ち度になる。自分が今日どちらへ向かうのかを確かめる時間なら、休んだ日にも借金は残らない。

器の水は、未来を映さない。今ここにいる自分の顔だけが揺れて映る。真帆には、それで十分だった。


本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。

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