待ち合わせまで、あと二十分。
文香は駅前のベンチで、昨夜見た映画の解説を読んでいた。主人公が最後に黙った理由。繰り返し映る窓の意味。自分では気づかなかった言葉に、指で印をつける。
もうすぐ会う涼は、その監督が好きだった。
映画を見終えたとき、文香が最初に思ったのは「長かった」だった。それを言える気がしなかった。
涼から「着いた」と連絡が来た。
文香は、解説の最後の一行を覚えてから立ち上がった。
「私も好き」が、次の約束になっていく
知り合ったころ、涼が映画の話を始めた。
文香も映画は見る。休日の夜、配信で気になった作品を選ぶくらいだった。監督の名前までは、あまり覚えていない。
「映画、好き?」
「うん、好き」
そこまでは本当だった。
涼が好きな作品を挙げると、文香は二本だけ見たことがあった。「あれ、いいよね」と返したら、涼の顔が明るくなった。
その顔を、もう一度見たかった。
次に名前が出た作品も、見てみたいと言った。週末には上映館を調べた。一緒に行ったあとの食事では、涼が話す感想にうなずいた。
知らなかった映画を教えてもらうのは楽しかった。好きになった作品もある。
けれど、合わなかった映画にも「よかった」と言っているうちに、次の約束も、その次の約束も、似た作品を見に行くことになった。
涼は「文香もこういうの好きだよね」と喜んだ。文香がそう伝えてきたのだから、自然なことだった。
上映予定が届くたび、会えるうれしさのあとに、予習しなければという気持ちが来た。
借りた感想で、会話が弾んだ
その日の映画館を出ると、涼が「どうだった?」と聞いた。
文香は、駅前で覚えた解説を思い出した。
「窓が何度も映るのが、外に出られない感じで」
涼はうなずいて、自分が気になった場面を話した。会話は途切れなかった。文香は安心した。
でも、「文香はどの場面がいちばん残った?」と聞かれると、答えに詰まった。
解説には、いちばん残った場面までは書いていなかった。
本当は、主人公が朝食を焦がす短い場面で笑った。誰も笑っていなかったので、声を引っ込めた。そのあと、少し眠くなった。
「最後のほうかな」
そう答えた帰り道、涼と話してきたのに、自分は何も話していないような気がした。
以前付き合っていた人に、好きな小説を「そういう軽いのを読むんだ」と笑われたことがあった。それ以来、詳しい人の前では、自分が何を好きかを言うのが怖かった。
涼に笑われたことはない。それでも、知らないと言った瞬間、つまらない人だと思われそうだった。
話が合う人でいたかった。相手の話を分かる人でいたかった。
そのために増やした知識の陰で、文香が面白かったところも、退屈だったところも、言う機会がなくなっていた。
違う感想を一つ、持っていった
次に会う前、文香は映画の感想を検索しなかった。
代わりに、覚えている場面を思い返した。意味がよく分からなかったところもあった。涼の話を聞けば分かるかもしれないし、聞いても好きにはならないかもしれない。
食事の席で、文香は切り出した。
「この前、窓の話をしたでしょ。あれ、解説を読んで知ったことだった。自分で気づいたみたいに話しちゃった」
涼は少し驚いて、「そうなんだ」と言った。
文香は、続きを話した。
「詳しくないのがばれると、話が合わないと思われそうで。本当は、朝ごはんを焦がすところがいちばん好きだった。あと、途中は少し長く感じた」
言ったあと、相手の顔を見た。
涼は「あそこ、長いのがいいんだけどな」と笑った。文香は一瞬、しまったと思った。
けれど涼は、そこから自分の感じ方を話し始めた。文香の感想を言い直させようとはしなかった。
聞いてみると面白かった。そういう見方はしていなかったと思った。それでも、長く感じたことは変わらなかった。
「なるほど。でも私は、もう少し短いほうが好きかも」
初めて、うなずくだけで終わらなかった。
涼は「そこは好みだね」と言って、飲み物を口にした。意見が揃わないまま、会話は続いた。
次は、自分が好きなものも選ぶ
帰り道、涼が次の上映の話をした。
文香は少し迷ってから、「その日は、映画のほかにも行きたいところがある」と言った。
小さな古本市だった。昔好きだった児童書を探したかった。映画の批評を読んでいる間も、寝る前には同じ児童書を何度も読み返していた。
「そういう本、読むんだ」
その言葉に、文香は身構えた。昔の恋人の声が、一瞬重なった。
涼は続けて、「どんな話?」と聞いた。
文香は、うまく説明できなかった。大きな事件は起きない。村の人たちが、食事をしたり喧嘩したりする。誰かが困ると、別の誰かが妙な助け方をする。その感じが好きだった。
話しているうちに、少し笑った。解説を覚えなくても、好きなところが出てきた。
涼は同じ本を好きになるかもしれないし、あまり興味を持たないかもしれない。映画の好みも、全部は重ならない。
文香は、次は古本市へ一緒に行って、そのあと涼の行きたい喫茶店へ寄ろうと提案した。二人とも楽しめるかは、行ってみて考えることにした。
相手の好きなものを知る楽しさは、これからも持っていたかった。ただ、自分まで同じものを好きな人になる必要はなかった。
帰宅して、読みかけの児童書を開いた。
次に涼に話したい場面が見つかった。今度は、誰かの解説を探さず、ページの端にしおりを挟んだ。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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