引っ越し代が足りないと分かった夜、母に電話をした。事情を話すと、翌朝には十万円が振り込まれていた。
通帳の数字を見た瞬間、肩の力が抜けた。敷金も、軽トラックの代金も払える。ありがたくて、すぐに電話をかけた。
母は『困ったときは家族なんだから』と笑った。それから、転職先の話を聞き、住む町の名前を聞いて、少し間を置いた。
『その会社、長く続けるの? せっかくなら実家に近いところにしたら』
昨日まで自分で決めるつもりだったことが、急に家族会議の議題になった。電話を切ったあと、振り込まれた十万円が銀行口座の中からこちらを見ているようだった。
助かった気持ちは本物だった
母がいなければ、引っ越しを延期していたかもしれない。新しい仕事にも間に合わなかった。お金を出してもらった事実を小さく扱いたくはなかった。
だからこそ、母の言葉へ反発すると、自分が恩知らずになったように感じた。電話に出るたび、会社の評判、家賃、交際相手との今後を聞かれる。答えたくない日は短く切り上げ、そのたびに罪悪感が残った。
母には母の心配がある。子どもが知らない土地で暮らし始めるのだから、口を出したくなる日もあるだろう。十万円を振り込んだことで、その心配がいっそう近くなったのかもしれない。
けれど、支えてもらったことへの感謝と、どこで誰と暮らすかを決めることは、同じ財布に入れて数える話ではなかった。
返すものが分からないままでは落ち着かない
『好きに使って』と言われた気もするし、『落ち着いたら返して』と言われた気もする。電話口で泣きそうになっていたせいか、その場面の記憶が曖昧だった。
もし借りたお金なら、返済の時期と金額を決める必要がある。もらったお金なら、金銭上の返済はない。その区別がつかないまま、住む場所への意見まで聞いていると、何をどこまで返せばいいのか分からなくなる。
毎月送金すれば終わるのか。母が安心する会社へ移ればいいのか。実家の近くへ戻れば返したことになるのか。輪郭のない借りは、人生のどこにでも広がっていく。
母がそこまで求めているとは限らない。自分の中で、感謝を返済へ、返済を服従へと大きくしていた部分もあった。曖昧なまま悩み続けるより、まずお金について一つだけ確かめる必要があった。
聞きたかったのは十万円のことだけだった
次の日曜、母へ電話をかけた。仕事や引っ越し先の説明から始めると、また話が広がりそうだったので、先に用件を言った。
『この前の十万円、助かった。あれは返すつもりで受け取るお金? それとも、お祝いとしてくれたお金?』
母は意外そうに黙り、『返さなくていいよ。新しい生活に使いなさい』と答えた。
その返事で、すべてが丸く収まったわけではない。母は続けて、近くへ戻る考えはないのかと尋ねた。胸の奥がまた固くなった。
それでも、今度は話の境目が分かった。十万円は贈り物として受け取った。住む町についての言葉は、母の希望として聞く。どちらにも耳を向けられるが、自分の暮らしの決定まで差し出したことにはならない。
『心配してくれているのは分かる。でも、今の会社とこの町で一年やってみたい』
声は少し震えた。母もすぐには納得せず、『どうして遠くへ行くの』と寂しそうに言った。そこで電話を切りたくなったが、母の寂しさを消す約束はしなかった。
感謝は自分の言葉で返していく
引っ越しの日、荷物を運び終えてから新しい部屋の写真を送った。窓辺に積んだ段ボールと、コンビニで買った小さな花が写っている。
母からは『狭そうだけど、日当たりはよさそう』と返ってきた。相変わらず一言多い。思わず笑ってしまった。
助けてもらったことは、これからも忘れない。余裕ができたら食事をごちそうしたいし、母が困ったときには力になりたい。ただ、その返し方を、自分の進路を諦めることだけに限定しない。
家族のお金には、数字だけでは測れない気持ちがついてくる。愛情、心配、期待、寂しさ。受け取った側にも、安心と負い目が同時に残る。
全部を一度の会話で整理するのは難しい。それでも、贈与なのか返済予定のお金なのかを確かめると、少なくとも金銭の約束には線が引かれる。その線が、家族を遠ざけるための壁になるとは限らない。感謝を感謝のまま届け、自分の選択を自分の言葉で伝えるための境目になることもある。
新しい部屋の鍵を机に置いた。母にもらった十万円で始めた暮らしだ。そして、ここでどう生きるかを決めるのは、自分だった。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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