管理人【K】の言葉

裏切られた過去を抱えたまま、これからの二人をどう生きたいか

ログインしてブックマーク

夫が差し出した店の写真を見て、和子は「おいしそう」と言った。

海の見える、小さな食堂だった。朝だけ出す焼き魚の定食があるらしい。六十一歳の誕生日を翌月に控えた和子に、夫は「日曜、早く出てみるか」と言った。

行きたいと思った。その直後に、あんなことをされた相手と、どうして出かけたいのだろう、と胸がつかえた。

数年前に夫の裏切りが分かり、二人は何度も話した。暮らしを続けると決めてから、笑い合える日も増えた。あの頃のように、朝起きた瞬間から苦しいわけではない。

それでも、ときどき自分の笑い声に戸惑う。

泣いていた頃の自分を、置き去りにしているような気がした。

楽しんだら、あの苦しみはどうなるのか

和子は返事を保留したまま、洗濯物を畳んだ。

夫はこの数年、尋ねたことに答え、二人で決めた約束を守ろうとしてきた。その様子は見ている。助かることも、うれしいこともあった。

けれど、自分から楽しそうにしてしまったら、夫は「もう終わったこと」と思うかもしれない。

和子が引っかかっていたのは、食堂へ行くことそのものより、その一日が何を意味するかだった。一緒に笑ったら、もう傷ついていないことになるのか。誘いを喜んだら、全部許したという返事になるのか。

あの苦しみを軽く扱われたくない。その願いから、楽しいことにまで手を伸ばしにくくなっていた。

つらかった時間は、今もつらい顔をしていなければ本当でなくなるのだろうか。

そんなはずはないと、和子は思った。あの頃ほとんど食べられなかったことも、夫が寝たあと台所で泣いたことも、自分が覚えている。日曜の朝に何かをおいしいと感じたとしても、その事実は消えない。

今の喜びを受け取ることと、過去の裏切りをよかったことにすることは、別々にできる。

頭では分かっても、すぐ気持ちが追いつくわけではなかった。だから和子は、夫に一つだけ伝えた。

「行きたい。でも、楽しんでいるから、もう何も思い出さないと思わないでほしい」

夫は写真を見せていた手を下ろした。

「分かった。忘れたことにしたいわけじゃない」

その返事で、すべて確かめられたとは思わなかった。ただ、忘れたふりをして誘いに応じる必要は、今夜はなかった。

これからの二人に、自分は何を望むのか

「行きたい」と言ってから、和子は少し驚いていた。

夫が反省しているか。約束を守っているか。これまでは、そのことを考える時間が多かった。自分がこの人と何をしたいのかは、後回しになっていた。

裏切りを経験したあと、相手の態度を確かめることには理由がある。口だけの謝罪で済ませられないこともある。そのうえで、暮らしが落ち着いてきた頃には、もう一つの問いが生まれる。

この人がどうするかを見ている自分は、これから、どんな時間を過ごしたいのだろう。

和子は、若い頃によく出かけた日のことを思い出した。夫が隣にいて、窓の外に知らない町が流れていく。それだけで楽しみだった。あの頃へそのまま戻りたい、と考えると無理がある。二人とも変わったし、知らずにいたことも知ってしまった。

けれど、海を眺めながら温かい朝ご飯を食べたいという、今の気持ちはあった。目の前の景色を見て「きれいだね」と言い、隣から返事が来る。和子は、そういう朝を夫と過ごしてみたかった。

それは「長く一緒にいたから、これからも一緒にいるしかない」とは、少し違っていた。慣れや事情もある関係の中で、自分の望みを一つ見つけた感覚だった。

愛情は、傷ついたあとにも残ることがある。残っているから苦しくなることもある。相手を大事に思う自分まで否定し始めると、今度は自分の心の行き場がなくなってしまう。

同時に、愛情だけで我慢を続ける暮らしが、自分の望むものかは確かめたい。和子にとっての「一緒にいたい」には、痛みを話したときに聞いてもらえることも含まれていた。楽しく振る舞うことを求められ、傷の話を封じられるなら、望んだ朝とは違ってくる。

今も隠し事や威圧が続く関係で、楽しい予定を作って覆い隠す話ではない。夫の現在の振る舞いを見ながら、和子自身も、自分が生きたい暮らしを考えている。

日曜に出かけるという選択も、二人の将来を一度で決める誓いにはしなかった。

「ご飯のあと、海沿いを少し歩きたい」

和子がそう言うと、夫は「じゃあ、車は食堂の近くに置こう」と答えた。

傷ついた自分と、この朝を選ぶ自分

日曜の朝、食堂の窓際にはまだ席があった。

運ばれてきた魚から湯気が上がる。夫が小鉢を動かして、和子の湯飲みを置く場所を空けた。和子は箸を取り、「来てよかったね」と言った。

その言葉を聞いた自分が、また少し身構えた。けれど今度は、取り消さなかった。

来てよかった。あの出来事は、今も悲しい。どちらも自分の気持ちだった。

過去を抱えたまま生きることには、悲しみを思い出す日もある。その悲しみがある自分にも、これから味わいたいものが残っている。忘れきるまで待たなくても、その望みを一つずつ暮らしへ入れていくことはできるのだと思う。

二人のこれからを考えるとき、「もう許せたか」だけを自分に尋ね続けると、答えの出ない場所に留まってしまうことがある。

この人と、今度はどんな一日を過ごしたいか。その一日を、無理をせず過ごすには何が必要か。小さな予定にも、今の自分が大事にしたいものは表れる。

和子は、苦しんだ数年があってよかったとは思わない。食堂の朝も、その埋め合わせにはならなかった。

それでも、湯飲みを両手で持って眺めた海はきれいだった。

食べ終えたあと、二人は外へ出た。海沿いの道を、和子から歩き始めた。

本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。

ログインしてブックマーク
管理人 【K】

WORDS LEFT HERE

この記事を読んで、心に残ったこと

答えや助言でなくても大丈夫です。 あなたの言葉は確認後、こよりがそっと届けます。