夕飯の支度を始めようとしたとき、夫が「明日、兄貴が昼に来るから」と言った。
「何か作れる?」
美恵は冷蔵庫を開けたまま、「うん」と答えた。明日は一人で映画を見に行くつもりだった。まだ券は買っていない。取りやめても、誰にも迷惑はかからない。
夫に予定を話していなかったことを思い出し、仕方がないと思おうとした。それでも、二人で迎える来客なのに、支度をする自分の都合が最後になったことは寂しかった。
六十歳になった美恵は、数年前に夫の裏切りを知った。話し合いを重ね、今は食卓で笑う日もある。夫も、あの頃に決めた約束を守っている。
ただ、言いにくくなった言葉があった。
「それは困る」「私はこうしたい」。
口にしかけると、発覚した頃に聞いた「家にいても気が休まらなかった」という夫の言葉が戻ってくる。
不機嫌にさせなければ大丈夫だろうか
あの頃、二人の会話が少なかったのは確かだった。美恵にも、話しかけられて生返事をした覚えがある。夫が寂しかったという話を、全部うそだとは思わない。
だからこそ、その言葉が残った。
また居心地が悪くなれば、夫は外へ向かうかもしれない。そう考えるようになってから、頼まれたことを断る前に、夫の顔を見る癖がついた。
仲良く暮らしたかった。傷つくことも、もう繰り返したくなかった。食事の好みを尋ね、疲れていそうな日は話を短く切り上げた。そうして穏やかに終わった夜には、安心した。
けれど、安心するたびに「今日もうまくできた」と思う自分がいた。
自分の振る舞い次第で防げると思えれば、何もできない怖さは少し薄れる。けれど、それでは疲れた顔さえ見せられない。休日の過ごし方が違うだけでも、言い出すのが怖くなる。
一緒に暮らす中で寂しさが生まれたなら、その寂しさについては二人で話せる。美恵が聞きそびれた話もあるだろう。ただ、夫が事情を隠して別の相手との関係を持ったことは、夫自身が選んだ行動だった。
会話を増やすために自分の振る舞いを見直すことと、相手が再び裏切らないように機嫌を保ち続けること。その二つを一緒に背負うと、美恵の不満だけが食卓に出せなくなる。
映画へ行く予定があった
翌朝、美恵は昼食用の皿を出しかけて、手を止めた。
映画の上映時間を、昨夜も調べていた。誘われたわけでも、記念の日でもない。自分が少し楽しみにしていた、それだけの予定だった。
「今日、映画に行こうと思ってたの」
夫は新聞から顔を上げた。
「そうなの? 昨日言ってくれれば」
その返事に、やはり黙っておけばよかったと思った。自分が話していなかったのも事実だ。謝って、そのまま支度を始めそうになった。
でも、昨日何を飲み込んだのかを、夫はまだ知らない。
「昨日は作れるって言ったけど、予定をやめるのが残念で。お昼は二人で外で食べてもらえる?」
夫は兄に連絡してみると言った。困った顔には見えたし、美恵の胸もまだ落ち着かなかった。
不満を伝えるとき、相手が一度も困らず、残念がらずに受け取ってくれるとは限らない。今回も、一度引き受けた返事を変える相談だった。夫には予定を調整する手間が生まれる。
その手間は具体的に相談できる。ただ、その手間をかけることが、再び裏切られる理由になるわけではない。
しばらくして夫が「駅前で食べることにした」と言った。美恵は礼を伝えたあと、もう一つ話した。
「次に家へ呼ぶときは、食事を用意できるか、先に聞いてほしい」
映画へ行けたことに加えて、次に同じ場面が来たときの話を二人の間に残せた。それが美恵には大きかった。
違う希望を持った二人で暮らす
美恵は、帰ったら夫に話そうと思っていた。最近、頼まれたことを断ると、昔のことを思い出して怖くなる、と。
その怖さまで一度に話すのは難しい日もある。まずは、取りやめようとしている予定や、引き受けると困る用事を、その日の話として伝えるところから始まることもある。
「あのとき傷ついた自分」を十分に説明し終えなければ、今日の希望を言えないのでは、暮らしの相談が重くなりすぎる。映画へ行きたいという言葉には、それだけで相談する中身がある。
相手の気持ちを気にかけることは、これからも大事にしたい。けれど、穏やかな関係を続けるために、片方が不満をなくしたように振る舞う日々は苦しい。違う希望が出たときに、聞き、折り合いを探す仕事は二人にある。
もし今、断りたかったのに引き受けた用事があるなら、のみ込んだ自分の予定を思い出してみる。「本当はこうするつもりだった」と話すと、何を変えてほしいのかも具体的になる。約束済みのことなら、返事を変える事情と、相手に必要になる調整も一緒に相談したい。
そこで相手が、過去の裏切りをこちらの不満のせいにしたり、「また外へ行く」とほのめかして従わせたりするなら、言い方を磨くだけでは解けない問題がある。希望を伝える練習より、身近な信頼できる人に今起きていることを話し、一人で受け止め続けないことが先になる。
美恵が玄関で靴を履いていると、夫が「何時ごろ帰る?」と聞いた。
「四時くらい。映画のあと、少しお茶も飲んでくる」
お茶のことは、いま言いながら決めた。夫の返事を待つ間、少し緊張した。
「分かった」
その一言を聞いて、美恵は鞄を持ち直した。今日の昼を別々に過ごすことが、少しずつ普通の予定になっていく。帰ったら映画の話をしたいと思った。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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