引っ越して三週間たっても、佳代の部屋には二つの段ボールが残っていた。
箱の横には『台所・毎日使う』と自分の字で書いてある。中身も分かっていた。前の部屋で十二年使った青いマグカップ、木のトレー、読みかけの料理本。
朝は紙コップでコーヒーを飲み、夜は箱をまたいでベッドへ行った。十分もあれば片づく。それでもテープを剥がせなかった。
二度空振りした棚
会社の支店が閉じ、佳代は別の町の本社へ異動した。断れば仕事を探し直すことになる。迷った末に異動を選び、一か月で部屋を決めた。
新しい台所の棚は、前より二十センチ高い。朝、何もない場所へ手を伸ばし、指が空を切った。昼には会社の給湯室でも、古い支店にあったはずの砂糖を探して別の棚を開けた。
小さな間違いが続くたび、『前はこんなこともできたのに』と思った。
前の職場では、新人が困れば佳代に聞きに来た。今は複合機の使い方も、昼食を買える店も知らない。以前の自分ならもっと働けた、もっと早く部屋を整えた、知らない輪の中にも入れた。
過去の自分を物差しにすると、今の佳代は毎日足りなかった。
箱を開けたら終わるもの
土曜の朝、段ボールの前へ座った。開けたくない理由を考えているうち、前の部屋の台所が浮かんだ。窓の外に隣の屋根が見え、冬は結露した。同じマグカップを洗い、決まった棚へ戻した。
箱を開けて新しい棚へ置けば、青いカップまで今の暮らしのものになる。前の町へ戻るつもりで一時的に住んでいる、という自分への言い訳が一つ減る気がした。
佳代はテープへ指をかけて、また離した。
戻りたい。戻っても支店はない。新しい場所を好きになりたい。好きになったら、前の暮らしを捨てるようで寂しい。
四つの気持ちはきれいに一つにならなかった。どれかを消してから片づけようとしたら、箱はずっとそこに残る。
紙に書いた二行
佳代は引っ越しの伝票を裏返し、二行だけ書いた。
『今の気持ち:前の町がなくなったようで寂しい』
『今日選べること:青いマグカップを一つ出す』
自分の今の感情と、今日選べることを一つだけ言葉にする。書いても気分は晴れなかった。箱を全部片づける気にもならない。
それでもカッターで上だけ開き、新聞紙に包まれたカップを取り出した。新しい棚のいちばん低い段へ置いた。前の台所と同じ位置では、また手が届かなかったからだ。
翌朝、佳代は一度だけ高い棚へ手を伸ばした。途中で気づき、低い段からカップを取った。紙コップより少し重く、縁の小さな欠けも指に触れた。
希望は、前と同じ手つきへ戻ることだけにあるのではない。変わってしまう自分が、次の手の伸ばし方を覚えていくところにも残る。
月曜日、佳代は新しい職場で隣の人に昼食の店を一つ聞いた。誘ってもらうところまでは望まなかった。教わった店へ一人で行き、前の支店の同僚へ料理の写真を送った。
段ボールはまだ一つ閉じたままだった。料理本を読みたい日が来るかもしれないし、そのまま処分するかもしれない。今は決めなかった。
青いマグカップだけが、新しい棚にあった。前の暮らしを忘れた証拠にも、新しい町へ馴染めた証拠にもならない。火曜の朝にコーヒーを飲むための、一つの道具になっていた。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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