真琴の連絡先を消した翌朝も、理恵はコーヒー豆を十八グラム量った。
湯を少し注いで三十秒待つ。その淹れ方を教えたのは真琴だった。十四年のあいだ、二人は本を貸し合い、転職の愚痴を聞き、誕生日には小さな店へ行った。
最後の半年は会うたびに言い争った。謝る順番や、誰が先に傷つけたかで話は戻り、真琴から『しばらく連絡しないでほしい』と言われた。
連絡先を消せば終わると思ったのに、台所には十八グラムが残った。
なかったことにすれば楽だと思った
理恵は借りていた本を箱へ入れ、二人で撮った写真も見えない場所へ移した。あんな終わり方をしたなら、本当の友人ではなかった。十四年は間違いだった。そう決めれば、もう考えずに済む気がした。
けれど、真琴に教わった作家の新刊を無意識に手に取った。人へ断るとき、以前より一晩考えられるようになったのも、真琴から『嫌なときはすぐ笑わなくていい』と言われたからだった。
傷ついた言葉も残っている。終盤の真琴は、理恵の仕事や交際相手を何度も否定した。楽しかった時間を認めたら、その痛みまで許すことになる気がした。
出会いを大切に思うことと、もう一度近づくことは同じ行動ではない。嫌だったことを美しい思い出へ直さなくても、受け取ったものまで捨てる必要はなかった。
縁は相手をつなぎ止める力ではなく、出会いによって選択や心に生まれた変化にも宿る。真琴が離れる自由と、理恵の暮らしへ残った十八グラムは、同時に存在できた。
二行を書いて写真を送らなかった
一か月後、理恵は一人で小さな書店へ行った。真琴が見つけた店だった。入口の棚に、二人で話していた作家の新刊が並んでいた。
写真を撮り、『出てたよ』と送りたくなった。検索すれば、真琴の連絡先は別の場所から見つけられる。『縁があるなら、この本がきっかけになる』という考えも浮かんだ。
理恵は店のベンチへ座り、今の感情と今日選べることを一つだけ書いた。
『今の感情:一緒に読みたかった。戻ってほしいし、まだ怒っている』
『今日選べること:本を自分のために買い、写真は送らない』
再会の可能性を否定したわけではない。未来は分からない。ただ、真琴が求めた距離を、本の偶然で上書きしなかった。
理恵は新刊を一冊買い、近くの喫茶店で最初の十ページを読んだ。読んだ感想を真琴へ話す場面を何度も想像した。誰にも送らないメモへ、その感想を書いた。
十八グラムを別の人へ渡した日
その冬、職場の後輩が家でコーヒーを淹れたいと言った。理恵は豆の量と蒸らす時間を教えた。
『詳しいんですね』
そう言われ、友人に教わったのだと答えた。元友人とも、縁が切れた人とも言わなかった。今は離れているけれど、大切なことを教わった人だと話した。
後輩が淹れた一杯は薄かった。理恵は笑い、次は湯を少し減らそうと伝えた。
その瞬間、真琴との関係がきれいに報われたとは思わなかった。別れの痛みが後輩の役に立つために必要だった、とも考えなかった。
ただ、二人の間にあったものの一部が、理恵の手を通って別の朝へ移った。真琴を待つための習慣ではない。今の理恵が飲み、誰かへ教えることのできる淹れ方だった。
連絡先を消した画面には、今も真琴の名前はない。戻らないまま終わるかもしれない。その可能性を悲しいと思いながら、理恵はコーヒーを淹れる。
関係が終わったことと、共有した時間が存在しなかったことは違う。縁の行き先は二人の間だけにあるのではなく、離れたあとに選ぶ言葉や手の動きにも残っていた。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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