「住む場所の希望はある?」
食卓に広げられた間取り図を見ながら、パートナーが尋ねた。
六十二歳になり、今の家を少し持て余すようになっていた。駅に近い小さな部屋へ移るか、住み慣れたここに残るか。急ぐ話ではないけれど、そろそろ考えようと話し始めたところだった。
「あなたの好きなところでいいよ」
そう答えると、向かいの手が止まった。
「私の希望は聞いてくれるけど、あなたの希望が分からない」
責めるような声ではなかった。それでも、返す言葉が見つからなかった。
数年前、二人の約束を破った。その事実が明らかになり、何度も言葉を交わした末に、関係を続けると二人で決めた。
今は連続ドラマの続きを一緒に見たり、食料品を買いに出たりする。帰宅が遅れる日は知らせるようになった。二人の間には、静かな生活のリズムが戻りつつあった。
ただ、自分から「こうしたい」と言うことが、あの頃から難しくなっていた。
希望を言うと、また傷つける気がした
本当は、今の町が好きだった。
朝に歩く川沿いの道も、顔を覚えてくれたパン屋もある。できるなら、この近くで少し小さな家を探したかった。
けれど、パートナーは駅の近くに関心があるようだった。それなら、そちらに合わせようと思った。
自分の気持ちを優先して、あれほど傷つけた。これからは相手を優先する。その思いは嘘ではない。
でも、「この町に残りたい」と言いかけたとき、胸に浮かんだのは別の言葉だった。
まだ自分の希望を言える立場だと思っているのか。
誰かに咎められたわけではない。まだ起きていない言葉を、自分で先回りして聞いていた。
過去に誰かを傷つけた経験があると、自分の望みそのものが怖くなることがある。また自分勝手になるのではないか。反省していないと思われるのではないか。
その怖さから、希望が生まれるたびに引っ込める。
けれど、望みを持つことと、その望みのために相手を欺いたり、選ぶ余地を奪ったりすることには、違いがある。
自分の希望を口にした上で、相手にも理由を尋ねられる。答えが食い違えば、何を大切にしたいのかを一緒に探せる。
あのときできなかった向き合い方を、今の暮らしで選ぶ余地は残っている。
それでも、その夜は言えなかった。
間取り図を重ねて片づけながら、パートナーの「あなたの希望が分からない」という言葉が残った。
償いたい気持ちの中に、言わずにいたこと
翌朝、川沿いを歩いた。
この道を二人で歩くこともあった。水鳥を見つけると、いつも先に立ち止まるのはパートナーだった。自分一人なら通り過ぎる景色を、一緒にいると少し長く眺める。
そういう時間が好きだった。
二人が今も同じ家で過ごす理由を聞かれたら、「責任があるから」と答えたかもしれない。傷つけたまま、自分だけ楽になるようなことはしたくなかった。
でも、それだけで今の気持ちが言い尽くせるだろうか。
帰宅したあと、今日あったことを聞いてほしい。初めての料理を一緒に味わいたい。これから変わる毎日を、この人と相談していきたい。
そうした望みも、確かにあった。
後悔は続いている。それでも相手を大事にしたい。その二つを話せば、過去を軽く扱っていると受け取られそうで、言葉にできずにいた。
だから、何も言わずに相手へ合わせてきた。
その沈黙を、相手がどう受け取っていたのかは分からない。大事にされていると感じる日も、何を考えているのか分からず寂しくなる日もあったかもしれない。
自分の中にある気持ちは、黙っているだけでは二人の話し合いに加わらない。
「好きなようにしていい」と決定を渡し続けることが、いつも相手の助けになるとも限らなかった。これからの暮らしを考えるには、自分の希望も必要だったのだと思った。
今の自分として、話し合いに戻る
夕食のあと、昨日の話を持ち出した。
「本当は、この町の近くに住みたいと思ってる」
パートナーが顔を上げた。
「川の近くが好きだし、これからも一緒に歩けたらと思ってる。でも、駅の近くがいいと思う理由も聞きたい」
口にしてから、身構えた。そんな希望を言う資格があるのかと、自分を責める声はまだあった。
パートナーは少し考えてから言った。
「今は歩けるけど、車に乗らなくなったら買い物が大変かなと思って」
その理由を、初めて聞いた。
駅の近くに行きたいという希望の中にも、これからの生活への心配があった。自分は賛成するかどうかばかり考えていて、そこまで尋ねていなかった。
「それは一緒に考えたい」
その日は、住む場所は決まらなかった。
川から離れたくない気持ちと、先々の便利さ。二人の希望を並べると、探す条件が少し具体的になった。
責任を果たす時間は、一度の話し合いで区切れるものではなかった。相手の中に当時の記憶がよみがえる日もある。その気持ちを受け取ることも、二人の先を思い描くことも、今の自分にできる関わりなのかもしれない。
自分が願いを伝えた先で、相手が別の暮らしを望むこともある。その答えを聞くのは怖かった。
自分の希望を伝えたことで、相手が抱えていた心配を初めて知った。
「来週、駅から川まで歩いてみる?」
そう尋ねると、「どのくらいかかるだろうね」と返ってきた。
許しの返事を待つ時間ではなかった。
二人は住まい探しの条件を話していた。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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