退職してからも、午前九時になるとスマートフォンを手に取った。
以前なら、後輩から「この見積もり、少し見てもらえますか」と連絡が来る時間だった。今は天気予報と店の案内が届く。何も困っていないなら、そのほうがいい。引き継ぎも済ませた。
それでも、画面を伏せたあとにもう一度見た。
送別会では「何かあったら聞いて」と言った。相手は「ありがとうございます」と頭を下げた。その返事を、これからも連絡が来る約束のように覚えていた。
相談の通知を待ちながら
久しぶりに届いた後輩のメッセージは、出張先で食べたラーメンの写真だった。
「前に教えてもらった店、行ってきました」
うれしくて、すぐに返した。「あの店、まだやってるんだな」。それから「仕事は大丈夫か」と続けた。後輩は「なんとかやっています」と答えた。
写真の丼を眺めているうちに、その「なんとか」が気になった。難しい案件があるのかもしれない。こちらから聞いたほうが話しやすいだろうか。
「例の取引先はどうなった」と打ちかけて、指を止めた。
仕事をしていたころは、困りごとを聞くのが自然な会話の入口だった。用件があれば声をかけられる。答えれば感謝される。自分がそこにいる理由を、毎回考えずに済んだ。
退職して、その入口がなくなった。会いたいと自分から言うより、何かを頼まれるほうが慣れている。相談を待つ気持ちには、力を貸したい思いと、またあの人たちと話したい寂しさが混じっていた。
後輩は、覚えていた店の写真を送ってくれた。こちらが仕事の様子ばかり尋ねると、その小さな話はそこで終わってしまう。
用件がなくても会いたかった
返事を書く前に、あの職場で恋しい時間を思い出した。
大きな案件をまとめた日のことも浮かんだ。けれど、昼休みに連れ立って歩いた道や、店が閉まっていて別の店を探した日のことも浮かんだ。後輩が辛いものを平気で食べるので、少し張り合ってしまったことも。
そういう時間は、仕事の相談がなくても過ごせる。ただ、同じ建物に通わなくなった今は、誰かが誘わないと始まらない。
打ちかけの質問を消して、「久しぶりに一緒に食べたいな。来月、都合が合う日があればどうだろう」と送った。
少し照れくさかった。役に立つ用件を添えずに誘うと、自分が会いたがっていることがそのまま伝わる。
仕事でつながった人と、退職後も親しくできるかは分からない。昼を一緒に食べていたのは、時間と場所が同じだったからという相手もいるだろう。今までの全員と同じ近さで続くことを求めれば、返事を待つ時間はつらくなる。
会って話したい人が一人浮かぶなら、その人を誘う言葉を考えてみる。困っているはずだという想像を、連絡の理由にしなくても。
元の上司として話してしまう日もある
後輩からは「来月の後半なら空いています」と返ってきた。日を決めるまで、何往復かした。
食事の席で仕事の話が出ると、つい「それなら、こうすれば」と言いかけた。口を閉じると、後輩は続きを話した。担当が変わり、前とは違う手順になったらしい。自分の知っている職場は、もう少しずつ変わっていた。
寂しさはあった。長く働いた場所だけに、聞き慣れない話が増えると遠く感じる。
会ったからといって、元の役割まで戻るわけではない。懐かしい仕事の話を楽しむ日もあれば、話の前提から教わる日もある。昔の上司と部下だった二人が、今どんな話をするのかは、まだ決まっていない。
実際に業務の相談を頼まれたときは、今の担当者が何を求めているか、社外の自分が聞ける内容かも確かめたい。「いつでも何でも」と引き受け続ければ、今の担当者へ相談することと自分へ尋ねることの区別も曖昧になる。こちらも連絡のある日を待つ暮らしへ戻ってしまうかもしれない。
一緒に食事をしたいと伝えるときに、退職後も仕事を支える約束まで添える必要はない。もし相談を頼まれたら、その内容を聞いてから引き受ける範囲を話す。
その日、後輩は最近飼い始めた猫の写真を見せた。毎朝、決まった時間に起こされるという。
「休みの日もか」
「休みの日もです」
笑ってから、自分も朝だけは早く目が覚めると話した。会社へ行く時間に起きて、そのあと何をするか、まだ決まらない日があることも。
誰かが困ってくれるのを待っていたころには、こんな話はしなかった。頼られる側でいるうちは、自分の近況を尋ねられても「いつでも空いてるよ」としか答えていなかった。
退職後も待ち続けている連絡があるなら、その連絡で本当は誰と、どんな時間を過ごしたいのかを思い浮かべてみる。仕事の用件を作るより先に、「会って話したい」と言いたかったのかもしれない。
食べ終わった丼の前で、もう少し猫の話を聞いた。今日は、解決しなければならないことは何もなかった。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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