「最近、けんかしなくなったね」
夕飯のあと、隣からそう言われた。テレビを見ながら、少し満足そうな声だった。
五十三歳。結婚して二十七年になる。
そうだね、と答えて湯のみを持った。今日は穏やかな夜のはずだった。けれど、その一言で、かえって二人の距離がはっきりした。
けんかにならなくなった理由を、この人は知らない。
先週、二人で使う部屋の模様替えが相談なしに決まっていたときも、以前なら何か言った。「先に聞いてほしかった」と。今回は、移動した棚を見て、掃除機の置き場所だけ確かめた。
納得したわけではなかった。説明を始めたあとの疲れを思い出して、口を閉じたのだった。
言わなくなって、暮らしは楽になった
何か伝えると、「そんなつもりじゃなかった」と返ってくる。その意図を責めているわけではないと説明すると、「じゃあ、どうすればよかったの」と少し声が硬くなる。
そこから言葉を選び直す。自分も強い言い方になる。結局、最初に何が寂しかったのかより、どちらの言い方が悪かったかという話になる。
そんな夜を、何度も過ごしてきた。
最近は、引っかかっても自分の中で済ませる。外へ出て気分を変える。相手の知らない楽しみも増えた。毎回ぶつからずに済むようになって、確かに楽になった。
その楽さまで、間違いだったとは思わない。何でも夫婦で分かり合おうとして、消耗していた時間もあった。
ただ、言わずに済ませるものは、不満だけにはとどまらなかった。
仕事帰りに見つけた小さな店。久しぶりに読んで面白かった本。話しかけようとして、「まあ、いいか」とやめる。用事は伝えるのに、自分の心が動いたことは、食卓に持ってこなくなった。
傷つくやり取りを減らしたかった。そのうち、相手に何かを渡そうとする動き自体が、少なくなっていた。
「最近、けんかしなくなったね」
その言葉を喜べなかったのは、言葉を飲み込んだぶんだけ、二人がうまくいっていることになっていたからかもしれない。
もう一度怒れるかより、まだ何を話したいか
昔の自分なら、もっと食い下がっただろう。
長く暮らすうちに、変わらないところも分かってきた。同じことを求め続ける気力もなくなった。今さらこんな話をして、また面倒な夜に戻るのかと思う。
それでも、胸の奥には「これでいいことにしないでほしい」という気持ちが残っていた。
けんかが減った夫婦の静けさには、いろいろな形がある。違いを理解して、ぶつかる必要がなくなった静けさ。自分の時間を楽しめるようになった静けさ。そして、話しても届かないと思って、言葉をしまった静けさ。
一緒にいる年数や、声を荒らげた回数だけでは、その違いは分からない。
言いたいことがある日に、それを二人の間に置けるだろうか。置いたあと、一人だけで後始末をしていないだろうか。
自分に問いかけてみると、欲しかったものが少し見えてきた。いつも同じ意見でいたいわけではなかった。模様替えなら、棚の位置は相手の案でもよかった。ただ、自分もそこで暮らしている人として、決める前に声をかけてほしかった。
「もう期待しない」と決めると、期待してしまう自分まで黙らせようとすることがある。けれど、何を望むかは場面によって違う。趣味を一緒に楽しむことは求めなくなっても、暮らしの決定には参加したい。その願いまでまとめて手放す必要があるのだろうか。
五十代になった自分が、これからも話したいことは何だろう。
昔と同じ熱量で分かり合おうとするより先に、そのことを、自分に聞いておきたかった。
静かだった夜の続きを話す
翌日、夕飯を片づけたあとで声をかけた。
「昨日、けんかしなくなったって言ってたでしょう。私は、話すのをやめたことがあるんだ」
相手は手を止めた。
「棚を動かしたことも、本当は先に相談してほしかった。でも、また言い方の話になると思って、言わなかった」
「だったら、そのとき言ってくれれば」
予想していた返事だった。やっぱり、と引っ込めそうになった。
「うん。でも、言えばまた説明し続けることになると思ってる。そのことも聞いてほしい」
今度は少し間があいた。
相手は、何も言わなかったから気にならないのだと思っていた、と話した。こちらは、気にならなくなったのではないと、もう一度伝えた。
その夜、長年の行き違いを全部話すことはしなかった。二人で使う場所を変えるときは、決める前に相談する。まず、その話をした。
ここから何が変わるかは、次に同じような場面が来たときに分かる。相手が聞くこと、覚えていること、実際の決め方に反映すること。その積み重ねがあって、話す側も少しずつ、言葉を渡したくなる。
言い方を磨くだけで、夫婦の会話を一人で直し続けることはできない。伝えるたびに笑われる、威圧される、罰を受けるような関係なら、二人きりで話すことを優先せず、外の支えを持つことが先になる。
最近、口にしなくなったことを一つ思い浮かべる。もう気にならないのか。それとも、今も気になるけれど、話す力を使いたくないのか。後者だったなら、自分が何を望んでいたかまで、なかったことにしないでいたい。
数日後、帰り道であの小さな店の前を通った。窓際に二つだけ席が空いていた。
一緒に来たいかと考えて、まだ分からなかった。
前なら、その分からなさも急いで片づけただろう。今は、少し立ち止まった。いつか誘いたいと思う日が来たら、そのときの気持ちで言いたかった。
けんかがない夜に、言えなかったことがある。そこから話し始めたばかりだった。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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