「レンズって、もう持ってるよね」
食卓に置かれた小さな箱を見て、恵子は言った。夫は箱から手を離し、「これは撮れるものが違うから」と答えた。
値段を聞いて、もう一度箱を見た。
「そんなものに、そんなに使うの?」
夫は何も言わず、箱を自分の部屋へ運んだ。
また余計なものを買った、と思った。二人で買い替えようと話していた洗濯機は、まだ調子の悪いままだった。
その夜から、夫は写真の話をしなくなった。いつもなら、帰り道に撮った雲や、川辺にいた鳥の写真を見せてくる。恵子には似たような写真に見えることが多かったけれど、どこで撮ったのかを聞けば、その日の話になった。
今は、夕飯のあとにスマートフォンを見ていても、こちらへ向けない。
話したかったのは値段だけだっただろうか
週末、恵子が友人と行くコンサートの話をすると、夫が聞いた。
「それも、結構するんじゃないの」
チケットと電車代を足せば、安くはなかった。でも、何年も聴いてきた歌手が久しぶりに近くへ来る。以前から楽しみにしていた。
「一晩で終わるのにね」
そう言われて、腹が立った。一晩で終わるからこそ、その日に行きたいのだ。どれだけその歌を聴いて過ごしてきたか、夫は知らない。
言い返そうとして、箱を前にした自分の声を思い出した。
恵子にとってコンサートは、毎日を楽しみに待てる予定だった。夫にとっては、数時間で終わる高い外出に見える。夫も、レンズをただの余計な買い物にされたと感じたのかもしれない。
好きなものが違う二人の間では、自分の出費には理由があり、相手の出費には値札だけが見えることがある。使うお金を心配していたはずが、いつの間にか、どちらの楽しみがまともかを争っている。
好きなものをけなされたと感じれば、使ったお金の話よりも先に、反論したくなる。
恵子も、洗濯機が気になるとは言わなかった。「そんなもの」と言えば、夫も不要だったと気づくはずだと思っていた。
本当に困っていたのは、共同で必要な買い物を先延ばしにしている間に、相談のない出費があったことだった。その話は、まだ一度もできていなかった。
同じ趣味にならなくても聞けること
「この前、そんなものって言ったのは悪かった」
夕飯のあと、恵子はそう切り出した。
「別に」とだけ返ってきた。すぐ話が弾むような空気にはならなかった。
「何が違うのか、私には分からないんだけど。あれで何を撮りたかったの?」
少し間があって、夫が窓の外を指した。朝、電線に来る鳥を撮りたかったという。今のレンズでは、撮ったあとで大きくすると、思っていたように見えないらしい。
「買ったら最初にあそこへ行こう、って考えてたんだ」
川沿いの場所の名前が出てきた。
恵子には、その違いが値段に見合うか、やはり分からなかった。ただ、夫が何日も先の朝を楽しみにしていたことは分かった。
好きになる理由まで同じにするのは難しい。それでも、相手がその時間をどう待っていたかは聞ける。恵子がコンサートの話をするときも、歌手の良さを採点してほしかったわけではなかった。楽しみにしている自分に、少し関心を向けてほしかった。
「私も、あの曲を会場で聴くのが楽しみなんだよ。一晩で終わるって言われると、話す気がなくなる」
「レンズの話も、そんな感じだった」
夫がうなずいた。
分かってもらえた部分があった。一方で、レンズを買ったことへの不満は残っていた。
まだ決めていない、二人のお金の話
「洗濯機の買い替えはどうなるのか、気になってる」
恵子が続けると、夫は、レンズは自分の趣味用に残していたお金で買ったと話した。
初めて聞いた区分だった。恵子は、そのお金も洗濯機の購入に回せると思っていた。夫は、毎月家計に入れたあとは各自で使えるというつもりだった。
どのお金を二人で使うのか、確かめずに暮らしてきた。
二人で使う予定のお金はどこまでか。それを確保したあと、それぞれが自分で決めて使える分をどうするか。話し始めると、曖昧なままにしていたことがいくつも出てきた。
「高いものは相談して」と恵子は言った。
「コンサートも?」
聞かれて、少しためらった。自分には特別な予定だから、という言葉では、夫の買い物だけを相談の対象にできない。チケットだけで考えるのか、移動に使う分も含めるのか。同じ条件を、自分の楽しみにも当てて話す必要があった。
その晩、金額までは決まらなかった。まず洗濯機に使う分を二人で確認し、それぞれの予定も並べて話すことにした。
趣味への理解が深まっても、出費の問題が消えるわけではない。生活に必要なお金が足りなくなったり、決めた約束を破って使ったりしたなら、そこは具体的に扱う話として残る。「好きなことだから」と足りない分をもう一人に埋めてもらい続ければ、その人が楽しみにしていた予定も失われていく。
ただ、その話をするのに、相手の楽しみをつまらないものにする必要もなかった。
今度また「そんなもの」と言いそうになったら、その買い物で何が心配なのか、もう少し具体的に言ってみたい。使える分の認識が違うのか、先に相談してほしかったのか。その違いが分かれば、相手に趣味を諦めさせる以外にも、話し合うことが見つかる。
翌朝、夫が一枚の写真を見せてきた。川辺の鳥が、細い枝に止まっていた。
「これを撮りたかったの?」
「そう。まだ、ちょっと違うんだけど」
恵子には、どこが違うのか分からなかった。夫は画面を指して説明し始めた。買い物の相談は、まだ途中だった。それでも、その朝は、写真を見ながら二人でお茶を飲んだ。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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