課長へ昇進した日に、父から万年筆をもらった。
『これからは人を育てる側だな』
恵はうれしかった。十二年続けた開発の仕事を認められた気がしたし、給与も上がった。
一年後、その万年筆でノートに『管理職を降りたい』と書いた。書いた文字があまりに幼く見えて、すぐページを閉じた。
誰かの問題で一日が終わる
恵のチームには八人いる。朝は一人の遅刻連絡から始まり、昼には納期の相談、夕方には評価面談が入る。自分で設計書を開くころには、頭の中に他人の予定が八人分残っていた。
以前は、難しい処理を一つ動かせた日に疲れの終わりがあった。今は部下の悩みを聞いたあと、帰宅してからも言葉を間違えなかったか考える。
ある面談で、部下が話している途中に次の会議の時刻を見た。『ちゃんと聞いていますか』と言われ、恵は謝った。
その夜、降りたい気持ちは逃げだと思った。もっと経験すれば慣れる。ここで抜けたら八人を置いていく。父にも、期待してくれた上司にも説明できない。
一方で、このまま続ければ人へ丁寧に向き合えるとも思えなかった。守りたかった部下へ、余裕のない声を向け始めていた。
失う名刺より取り戻す一日
恵は、管理職を降りたら失うものを書いた。役職手当、裁量、昇進の経歴、課長と印刷された名刺。四つ目で手が止まった。
次に、取り戻したい一日の過ごし方を三つ書いた。
『午前中に二時間、自分で設計する』
『相談を一件、時計を見ずに聞く』
『十九時に仕事用の画面を閉じる』
三つとも、肩書きではなかった。技術を使い、目の前の人へ時間を渡し、夜は仕事から離れる一日だった。
管理職を降りることは後退ではなく、力を使いたい場所を選び直すことでもある。そう書いても、手当が減る怖さは消えなかった。恵は家計を確認し、減収した場合に毎月いくら残るか計算した。
翌週、上司へ面談を頼んだ。
すぐには降りられなかった
『課長を続けるのが難しいです。次の期に、開発を中心にする役割へ移れないか相談したいです』
上司は驚き、『評価されているのにもったいない』と言った。専門職の空きは今すぐにはなく、給与も同じ条件を約束できない。後任も決まっていなかった。
恵は、八人を放り出して明日から開発へ戻りたいわけではないと伝えた。半年を目安に後任を探し、評価記録と案件の判断基準を引き継ぐ。その間、週に半日だけ開発へ戻す案を出した。
面談の終わりに決まったのは、翌月から水曜午前を設計作業へ空けることと、三か月後に役割変更をもう一度話すことだけだった。降りられる保証はない。
水曜の朝、久しぶりに開発環境を開いた。操作を二つ忘れていて、若い同僚に教えてもらった。二時間で書けたコードはわずかだった。それでも昼休みには、疲れの種類が以前と違うと感じた。
恵はまだ課長の名刺を使っている。面談も続き、十九時に閉じられない日もある。役割変更が実現しなければ、別の職場を考える必要があるかもしれない。
昇進祝いの万年筆は、役職を手放す相談の記録にも使った。父へはまだ話していない。きれいな決断になってから報告するつもりもない。ただ、次に会ったときは『今の一日を変えようとしている』と伝えようと思っている。
上へ進んだ経験は、降りたら消えるものではない。人の予定を背負った一年で学んだことを持ったまま、今度は自分が力を置きたい場所を選び直している途中だった。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
WORDS LEFT HERE
この記事を読んで、心に残ったこと
答えや助言でなくても大丈夫です。 あなたの言葉は確認後、こよりがそっと届けます。