食後のテーブルに、母が古いアルバムを持ってきた。
端が少し反った写真を指して、弟が笑う。
「このころ、ほんと大変だったよね」
母も続ける。学校から何度も電話が来たこと。家を飛び出して探し回ったこと。親戚の集まりで黙り込んだこと。
どれも、なかった話ではない。自分でも覚えている。家族が困ったことも分かっている。
だから一緒に笑った。
笑いながら、胸の奥だけが昔の部屋へ戻っていった。
家族の中で完成している説明
昔話が始まると、家族はそれぞれ決まった役へ収まる。
弟は手のかからない子。姉は要領のよい子。自分は心配ばかりかけた子。
長く共有された物語は便利だ。細かな説明がなくても、誰がどんな人だったかを皆で分かった気になれる。ひとつの失敗を出せば、別の失敗も次々につながる。
その場には笑いがある。責める声は聞こえない。
それでも苦しいのは、昔の出来事を覚えているからだけではなかった。
今の自分まで、そのころの説明に回収されていくからだった。
仕事を続けてきた年月も、誰かを支えた日も、一人で決めて暮らしている現在も、家族の食卓ではなかなか登場しない。アルバムを閉じても「この子は昔から危なっかしい」という印象だけが残る。
過去は事実として存在する。一方で、どの場面を何度も語るかは、家族が選び続けている。
笑えないと言うと空気を壊しそうで
「もうその話はやめて」と言えば、母は驚くかもしれない。
「今さら何を気にしてるの」
「笑い話になったんだからいいじゃない」
そんな返事が浮かぶ。
家族にとっては、当時の苦労を乗り越えた証なのかもしれない。深刻だった出来事を笑って話せるところまで来たという安心もあるだろう。
こちらにも、申し訳なさが残っている。実際に迷惑をかけた。忘れてほしいと頼む資格などないように感じる。
だが、出来事を記憶することと、誰かの人格をその場面へ結びつけ続けることは同じではない。
十五歳の自分が起こしたことを、四十歳の自分も引き受けている。けれど十五歳の自分だけに、今の自分を代表させる必要はない。
家族が笑える思い出と、自分が笑えない記憶が同じ食卓に置かれることもある。感じ方が揃わないからといって、どちらかが嘘になるわけではない。
過去を消さずに語り方を変える
次に同じ話が出たとき、うまく笑えなかった。
「その話、みんなには面白いんだと思う」
そこまで言って、一度水を飲んだ。
「私は、今もあのころの人だと思われている感じがして、少しつらい」
家族はすぐには返事をしなかった。弟が写真から目を上げ、母はアルバムの端を撫でていた。
過去を消してほしいのではない。迷惑をかけなかったことにしたいわけでもない。
ただ、その話をするとき、今の自分まで同じ名前で呼ばないでほしい。できれば家族が知らない二十年の話も、少し聞いてほしい。
願いを伝えても、家族の記憶はすぐに変わらないだろう。次の集まりで、また誰かが同じ話を始めるかもしれない。
それでも、自分までいつもの役へ戻る必要はなくなる。今日は笑えないと伝える。席を外す。今の話をひとつ置く。
家族が持つ物語を奪うことはできないが、自分の現在を誰の語りへ預けるかは、そのたびに選び直せる。
アルバムに写っていない年月
帰り際、母がアルバムを閉じた。
玄関で靴を履いていると、弟が「今の仕事、もう何年だっけ」と聞いた。
たぶん、気を遣っただけだ。昔話の見方が変わったわけでもない。
それでも、自分は立ち止まって答えた。
今年で十一年になること。去年から新人を教えていること。最初は苦手だったが、最近は相手が質問しやすいように待てるようになったこと。
話しながら、これは家族の知らない自分なのだと思った。
アルバムに写っていない時間にも、選んだことや失敗したことがある。昔より上手になったことも、まだ繰り返してしまうこともある。
人の心は、ひとつの場面で完成しない。
家族が覚えている自分は、自分の一部ではある。全部ではない。
玄関を出る前に、母が「今度、その仕事の話も聞かせて」と言った。
次に本当に聞いてくれるかは分からない。
けれど今夜は、家族の昔話の続きを笑って演じる代わりに、アルバムの外で生きてきた年月を、自分の声で少しだけ話せた。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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