謝ろうと思って、やめた。
夕飯のあと、夫が二人分の湯のみを出している。今なら話せそうだった。けれど、声をかける直前に、昨日の「だから言い方がきついんだよ」が耳に戻ってきた。
ここで私が謝ったら、やっぱり自分は悪くなかった、とこの人は思うのだろうか。
そう考えた途端、「お茶、そこに置いて」としか言えなくなった。
結婚して二十四年になる。用事だけなら普通に話せる。昨日のけんかも、外から見ればもう終わっている。
ただ、食卓の向こうにいる人へ、言えない言葉が二つ残っていた。
言い過ぎたことを謝りたい。
あの予定の決め方には、今も納得していない。
謝った人が、全部引き取るのか
日曜に夫の実家へ行くことになっていた。真紀が知ったのは、夫が電話で「二人で行くよ」と答えたあとだった。
その日は、久しぶりに家でゆっくりしたかった。行けない用事があるわけではない。それでも、自分の休みが、確かめられないまま誰かの予定に入ったことが嫌だった。
「どうして先に聞かないの」
「嫌なら、行かなくていいよ」
その返事に、腹が立った。もう約束したあとで断れば、自分だけが付き合いの悪い人になる気がした。
「あなたって、私のこと何も考えてないよね」
夫は黙り、それから、言い方がきついと言った。実家へ行く話はそこで消えた。残ったのは、真紀の口調と、夫の不機嫌だった。
一晩たって、あの一言は違ったと思った。夫が何も考えていないかどうかまで、自分に分かるはずがない。これまで気にかけてもらった出来事もある。それらをまとめて消すような言葉だった。
でも、だからといって、先に予定を決めたことまで問題がなくなるのか。
真紀の中では、その二つが結びついていた。謝るなら、自分の不満も引っ込めなければならない。納得できないことが残るなら、まだ謝れない。
夫婦げんかのあと、どちらが先に折れるかを待つ時間がある。先に話しかけた人が負けて、黙っていた人の言い分が通る。そんな終わり方が重なると、謝罪の一言に、その晩の争い全部の決着を背負わせてしまう。
真紀がためらっていたのも、「ごめん」を言うことだけではなかった。言ったあと、自分の話を聞いてもらう場所がなくなるのが怖かった。
二つの話を、二つとも残す
翌朝、真紀は夫に声をかけた。
「昨日、私のこと何も考えてないって言ったでしょう。あれは言い過ぎた。ごめん」
夫は新聞から顔を上げた。
「そういうふうに言われると、こっちも話す気がなくなるんだよ」
自分だって、と言いかけた。せっかく謝ったのだから、そちらも何か言ってほしかった。
真紀は少し黙った。謝った直後に同じ分だけ返してもらおうとすると、また、どちらがどれだけ悪いかという話が始まる気がした。
「あの言葉を言ったことは、謝りたかった」
そこまで言って、いったん止めた。
夫が朝食を終えたころ、もう一つの話を出した。
「日曜のことは、まだ決まったつもりになれない。私の予定を聞く前に二人で行くと返事したことについて、今夜話したい」
「謝ったのに、まだ続くの?」
そう言われて、胸が固くなった。やはり、謝ると終わったことになるのだ。
「言った言葉を取り消したいのと、これから予定をどう決めるかは、両方あるんだ」
うまく言えたとは思わなかった。声も少し強くなった。それでも、自分が何について謝り、何を相談したいのかは、昨日よりはっきりしていた。
謝罪には、自分がしたことを認める働きがある。夫婦の意見の違いを、すべて解消する働きまではない。
傷つけた言葉について謝りながら、元の出来事について違う考えを持ち続けることはできる。そこで不満を捨ててしまうと、表面上は仲直りできても、次の似た出来事で「前も私が我慢した」が戻ってくる。
反対に、不満がもっともだと思うほど、どんな言葉も仕方なかったことにしたくなる。そのままでは、聞いてほしかった話へ戻る道を、自分でも狭くしてしまう。
どちらか一つにまとめず、自分が引き受けることと、二人でまだ考えることを残しておく。真紀は、それを一度試してみたかった。
その晩、夫は「いつも二人で行っていたから、今回もそうだと思った」と話した。真紀は、行きたくない日もあること、用事が入っていない日にも自分の希望があることを伝えた。
夫はすぐには納得しなかった。親が楽しみにしている、という話も出た。それでも最後に、今回は自分一人で行くと答えた。次から二人の予定として返事をする前には、互いに確かめることになった。
夫から同じ長さの謝罪が返ってきたわけではない。真紀には物足りなさが残った。決めたことが次にも守られるかは、まだ分からない。
ただ、その夜は真紀の言い方だけを直して終わることにはならなかった。
謝ったことを繰り返し持ち出され、何を話しても自分だけが悪いことにされるなら、言葉の整え方で解決できる範囲を超えている。怖くて異論を言えない関係では、二人きりで謝罪を試すことより、信頼できる第三者へ状況を話すことを先に考えたい。
自分から謝るのが悔しい夜には、頭の中の「でも」の前後に、別々の用事が隠れていることがある。
あの言葉は言い過ぎた。でも、先に決められたことは嫌だった。
前半は、言った本人から渡せる。後半は、二人で扱う話として残る。相手から謝罪を引き出すために、前半を差し出すわけでもない。
日曜の朝、夫が出かけたあと、真紀は湯のみを一つ出した。ゆっくりお茶を飲みたかったのだと、ようやく思い出した。
昨夜、謝ったことへの悔しさは少し残っていた。それでも、飲み込んだまま相手をにらんでいた朝とは違った。
自分の言葉には責任を持ちたい。そのうえで、自分の休みについても話したい。
二つとも手元にあるまま、お茶はまだ温かかった。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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