「この人、そういうの苦手だから」
店員に答えたのは、尋ねられた本人ではなかった。
結婚して十二年の直子は、夫の修平が差し出したメニューを戻した。香草を使った新しい料理。昔、一口で顔をしかめた修平を覚えている。代わりに、いつもの定食を二つ頼もうとした。
「今日は食べてみようと思ったんだけど」
修平の声は小さかった。直子はメニューを開き直しながら、先に言ってくれればよかったのに、と思った。
覚えていたから答えられた
直子には、夫を雑に扱ったつもりはなかった。苦手な食べ物、混んだ電車が嫌いなこと、休日は家で過ごすと機嫌がいいこと。長く一緒にいたぶん、迷わせずに済むことが増えていた。
修平も同じだった。旅先を探すときは「直子は山より海だよね」と海沿いだけを調べる。直子が以前喜んだ場所へ連れていきたかった。
その言葉を聞くたび、直子は少し引っかかっていた。最近は木陰を歩く旅にも興味がある。けれど、すでに宿を三つ調べてくれた人へ、別の場所の話を出すのは面倒だった。
二人とも、相手のために覚えていた。二人とも、覚えられている自分に返事を合わせる日があった。
何年も前の好みが便利に使われるほど、訂正には説明が必要になった。なぜ変わったのか。前は好きだったはずなのに。本人にも理由の分からない変化を、食卓で説明するほどの元気はない。今日もいつものものを選んだことにする。
こうして省かれていた会話がある、と直子は店を出てから思った。大きな秘密を隠していたわけでも、話題が尽きていたわけでもなかった。
今日の返事が入る場所
帰り道、直子は尋ねた。
「香草、いつから食べるようになったの?」
「まだ分からない。隣の席のがうまそうだったから」
変化には、長い経緯があると思っていた。その日の匂いや、皿の色だけで気が向くこともある。修平は一口食べて、結局少し残した。それでも、自分で頼んで確かめたかったのだという。
直子は、夫の新しい好みとして「香草が好き」と覚え直しかけて、やめた。今日試したかった、という返事をそのまま聞いた。
人をよく知っていると、返事を待つ手間が減る。それで助かる場面はたくさんある。疲れて帰った日に好きなお茶が出てくることまで、窮屈になるわけではない。
ただ、相手の答えがすでに決まったものとして扱われると、今の本人が口を挟む隙間までなくなる。親しさの中で、尋ねることが省略され続けてしまう。
「前はこれが好きだったよね。今日はどう?」
直子が次に使いたいと思ったのは、そんな聞き方だった。覚えていることに、今日の返事を足せる。違う答えが返ってきても、以前の思い出が間違いになるわけではない。
海に行った年も残っている
週末、旅行の相談で直子は森の中の宿を一つ見せた。
「今年は、こういうところを歩いてみたい」
修平は「海、飽きた?」と聞いた。直子は、海も今でも好きだと答えた。去年の宿が嫌だったわけでもない。あの朝、窓を開けたときの潮の匂いはよく覚えている。
「今年はこっちが気になる。それくらいなんだけど」
修平はしばらく写真を見て、坂道が多いか調べようと言った。宿はまだ決まらなかった。直子も、実際に行けば海が恋しくなるかもしれない。
好みを話すたびに、これからずっと変わらない自分を届ける必要があるとしたら、何も言えなくなる。昨日までの自分に、今日の自分が少し足される。その程度の話ができる相手でいたい、と直子は思った。
次に一緒に何かを選ぶとき、「あなたはいつも」と答えを先に置きそうになったら、一度だけ今の希望を尋ねる。返事が意外でも、理由を細かく求める前に、その希望を候補へ入れる。
新しい答えを毎回用意する必要もない。いつもの定食が食べたい日には、いつもの定食を頼む。尋ねられて同じものを選ぶことにも、自分で答えた手触りが残る。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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