玄関の鍵が回る音を聞いて、直人はソファから立った。
紗季は濡れた傘をたたみ、肩から仕事用の鞄を下ろした。おかえり、と言いながら直人が腕を広げると、紗季は半歩うしろへ下がった。
「ごめん。今日は触られたくない」
直人は腕を下ろした。「分かった」と答えた声が、自分でも驚くほど固かった。
そのあと二人でカレーを食べた。紗季は職場の人が急に休んだ話をした。直人は相づちを打ちながら、頭の中で別の計算をしていた。先週もハグはしていない。寝るときも紗季は背中を向けていた。好きなら触れたいはずだ。触れたくないなら、もう好きではないのかもしれない。
食後、紗季が洗った皿を直人は無言で拭いた。
答え合わせを始めてしまった
直人にとって、帰宅したときのハグは「今日も二人は大丈夫」という確認だった。紗季が応じるたび、言葉にされない安心を受け取っていた。
だから一度断られた夜に、これまでの関係まで採点し直した。最近の会話。寝室での距離。メッセージの短さ。どれも減点に見えた。
「もう俺のこと好きじゃない?」
喉まで出かかったが、直人は飲み込んだ。その質問をすれば、紗季は安心させるために抱きしめるかもしれない。今夜の紗季が望んでいないことは、すでに聞いている。
直人は風呂へ入り、いつもより長く湯船に座った。寂しかった。それは消えなかった。腹を立てていると思っていたが、よく見ると、近づこうとした自分だけが取り残された感じがしていた。
翌朝のトーストは少し焦げた
翌朝、紗季は先に起きてコーヒーをいれていた。直人がトースターへパンを入れ、二人で焼けるのを待った。
落ち着いた時間に、断られた夜に何を寂しいと感じたかを話す。直人は昨夜考えた言葉を、そのまま言った。
「昨日、触らないでって言われたことは分かってる。ただ、最近は俺から近づかないと何もない気がして、昨日それが一気に寂しくなった」
紗季はすぐには答えなかった。トースターが鳴り、パンの端が黒くなっていた。
紗季は、昨日は一日中、人に話しかけられ続けたと話した。満員電車では知らない人の鞄がずっと腕に当たっていた。家へ着いたとき、誰の身体も近くに置きたくなかった。直人を嫌いになった話ではなかった。
それから紗季は、帰宅するたびにハグを期待されていると感じる日があることも話した。断れば直人が黙るので、疲れていても応じた夜があったという。
直人はショックだった。自分には親しさだったものが、紗季には課題になっていた日がある。どちらか一方の説明で全部は片づかなかった。
二人だけの合図が増えた
二人は、その日のうちに立派な約束を作れなかった。
紗季は、触れたくない日は「今日は一人分の空間がほしい」と言うことにした。直人は、その言葉を愛情の判定へ使わない。寂しさが続いたら、その場で身体に答えを求めず、翌朝か休日に話す。
代わりに何をするかも試した。手を振るだけの日。ソファの端と端で同じドラマを見る日。紗季のほうから直人の肩へ頭を置く日もあった。
うまくいかない夜は残った。断られた直人が黙り込み、紗季が機嫌を取ろうとすることもあった。そんな翌朝には、昨日また点数をつけそうになった、と直人から言った。
触れ合いを断られた一度を、愛情全体の点数にしなくていい。直人が覚えたのは、悲しさを無かったことにする方法ではない。紗季の身体を動かさなくても、自分の寂しさを二人の話題にできるということだった。
ある雨の夜、紗季は玄関で傘をたたみながら言った。
「今日はハグできる日」
直人は笑ってから、「ほんとに?」と一度だけ聞いた。紗季がうなずいたので、今度は急がず腕を伸ばした。
本文中の人物や出来事は、テーマを伝えるために構成したフィクションです。
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